スパイダー〜少年は蜘蛛にキスをする/デイビッド・クローネンバーグ

makisuke2003-04-12

スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする [DVD]
映画を観る前には、なるべく必要以上の情報を入れないようにしている。レビューだとか、紹介記事だとか。なるたけ自分の中に取り込まないで、まっさらな状態でその映画に向きあいたいと思っている。私の暮らしている東京という街は、とにかく音楽や映画や本で溢れているのだから、せめて誰かの言葉と文字以外で、私に訴えてきたものだけ拾っていきたいと思っている。それは映像の断片だったり、耳に残るセリフの一言だったり、そんなモノでいいと思っている。例えそれが錯覚であろうとも、記憶のようなものに支配されていようとも、それでいいと思っている。いつだって「私が選んだ」という感触を残しておきたいと思うのだ。

それでも飛び込んできたこの映画「スパイダー・少年は蜘蛛にキスをする」の評判はあまり芳しいものではなかった。例えば、朝日新聞に載っていた沢木耕太郎のレビューの冒頭には「映画を見ている九十分と、見終わってからの何時間かを楽しく過ごしたいのなら、この「スパイダー」は見ない方がいいように思う。暗く、陰鬱で、最後まで救いが現れることがないからだ」と、なっているのだ。澤木さんに限らず「暗い」「陰気」「救いがない」「難解」などの言葉を断片的に見かけることはよくあった。

そんな(?)「スパイダー」を観てきた。行き着けないほどの大きな映画館は、ちょっとびっくりするぐらいに長かった。画面の前に立って見渡せば、はるか彼方まで客席がずらずらと延びている。そこに人がまばらに入っているだけ、画面の真ん中を求める人たちで、客席に一本背骨が通ったみたいにだ。その様子が、ますます寒々しい雰囲気を醸し出している。

そして、肝心の映画なのだが、、とても良かったのだ。クローネンバーグの映画の中で、私には一番しっくり来たように思う。(私はとにかく男の子映画に弱いのだ)正直に言ってしまえば、私はこの映画から「衝撃」も「戦慄」も感じなかった。誰かが言うように「暗さ」も「陰鬱さ」も感じなかった。「物語」とか「ストーリー」とかはどうでもよくなっていく自分がいるのを感じていた。私はただ映画らしい映画を観ていた。上映時間九十分では足りないぐらい。私はもっとこの世界に留まっていたいと思ったのだ。

この映画は緊縛している。蜘蛛の糸のように張りつめている空気を感じるのだ。それは最初は退屈にも映るかもしれない。糸は最初は緩く、次第にキリキリと、そして身動きを止めてしまうように締め上げてゆくのだから。だから最初は眠気と闘う人もいるかもしれない。私だってそうだった。それがいつの間にか身動きが取れなくなっていた。捕まったのだ。

クローネンバーグという人は、簡単には私たちを怖がらせてくれない。もちろん分からせてもくれない。印象的なカットを連発したりも、もちろんしない。物語も人も狂気も簡単には流れない。人は簡単には壊れない。物語も人も狂気もいつもそこに留まろうとしてギリギリなのだ。そのギリギリの状態の中に、私は怖さと同時に気持ち良さ、快感のようなものを感じるのだ。丹念に張った蜘蛛の糸の中で、私たちがいつでも捕まってしまえるだけの仕掛けを丹念に仕掛けていく。だけどその仕掛けは、テクニックや技術なんかじゃない。私たちが恐れているものや忘れていたことや見たくないもの。見ている私の心が実にナイーヴに変化し始めて、少しの刺激でも絶えられなくなることをじっと待っている。でもそれは決して意地悪なんかじゃない。じらされているのじゃない。

きっとクローネンバーグという人も私と一緒にずっとそうやって何かを待っているのだと思う。