ソラリス/スティーヴン・ソダーバーグ

ソラリス 特別編 (初回限定版) [DVD]

私はあなたが覚えているもの。私の声もあなたが覚えているもの。


タルコフスキー好きの友達に誘われて「ソラリス」を観てきました。この映画は「惑星ソラリス」と原作(ニスワム・レム作「ソラリスの陽のもとに」)を同じに持つという。監督のスティーヴン・ソダバーグはタルコフスキーとは、違った角度からこの脚本を書き上げ、別物に仕上げているとの事である。


心理学者のケルヴィン(ジョージ・クルーニー)は、親友のSOSを受け、惑星ソラリスの軌道に浮かぶ宇宙ステーションに向かう。そこではすでに親友は自殺し、宇宙船に残るメンバーの様子もおかしくなっていた。ソラリスには心象を実体化する力があるらしい。思い浮かべた人間が「お客」となって、肉体を伴い現れるのだ。ケルヴィンが、今は亡き妻の事を思い出すと、彼女が実体となって現れる。戸惑い恐れるケルヴィン。ロケットに乗せ、妻を放出するが、回想した途端に、妻は再び現れてしまうのだ。


目の前に現れた妻は、ケルヴィンの「記憶の再構築」である。


妻は妻であるけれど、妻ではない。自分の記憶で作り上げられた「偶像」だ。心象の様が実体となったのだ。記憶とは何処までも個人的な物である。私たちは、誰もが自分の都合の良いように記憶をコラージュし(時に都合の悪い物は忘れ去り)、それにすがって生きてもいる。それで構わないはずなのだ。しかし記憶が実体をもったらどうだろう。自分の中で歪められ、飾り立てられたその記憶。その醜さ、身勝手さ。良く知った(でも、見慣れぬ)実体が現れる。その実体に私たちは何処まで責任が負えるのだろうか。


「私はあなたが覚えているもの。私の声もあなたが覚えているもの」


想念は止まらない。記憶は止む事がない。そしてその「偶像」である相手にも人格があり、記憶があり、想いはあるのだ。ケルヴィンの「お客」として現れた妻も、回想をはじめる。自分の記憶とカルヴィンの記憶の埋められない溝に苦しんでいく。人と人は否が応でもすれ違う。そのありきたりの悲しさを想う。何処までも想いは重ならない。人と人はどんなに愛し合おうと、隔てられたヒトリヒトリの人間なのだ。生まれ落ちたその時に、私たちが引き受けた当たり前の孤独。それをまるで形にして見せられたようじゃないか!


回想が回想を呼び、記憶が記憶を呼び、物語はどんどん不確かに絡まっていく。


SF映画であるけれど、この映画はほとんど密室劇のように出来上がっている。宇宙船は出てくるけれども、それだけだ。美しい惑星の光景も見えるけれど、それだけだ。ここにあるのは「愛」。止めようとしても止まる事のない「誰かを愛した記憶」だ。かき消えていくようにセリフは消され、永遠に繰り返されるような単調な(だけど物悲しい)音楽に包まれて。誰の記憶かもあやふやな美しい記憶を眺めていると、時間も空間も何処か置いてきぼりになってくる。


惑星ソラリスの見せる幻覚の中で、何が現実で、何が正しく、何がしあわせで、「死ぬ」とはどういう事か、「生きる」とはなんなのか、「人間」と呼ばれる私たちとは何者か、そんなことを考えた。


そして、そんな事などどうでもいいじゃないかとも考えた。


これほどまでに居眠りする人続出の映画も、初めて観たけれど(つまんないんだろうよ)。私はこの映画の観念がたまらなく好きだ。雨がとっても奇麗に降っていたし。

「愛する」事が、事だけが、あらゆる不可能を可能にかえる。私たちが、生まれながらに引き受けねばならなかった当たり前の孤独。それを飛び越えられるのが「愛する」ことなのだ。


そんなことを誰かの「イビキ(そりゃスゴイ)」が轟きわたる、エンドロールの流れる中で考え続けていた。