トーク・トゥ・ハー/ペドロ・アルモドバル

makisuke2003-07-12

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トーク・トゥ・ハー」。彼女に語りかける。CMの中おすぎさんが「一生分の涙を流しましたっ!」と、情熱的に語っている、あの映画の事である。その情熱に、腰が引けそうになった私ではあるけれど「オール・アバウト・マイ・マザー」のペドロ・アルモドバル監督の新作となれば、見ないでおくものか。である。

まずは、何とも肉感的な映画だった。スペインの監督というのも、頷ける。濃厚な空気が支配していた。随分長い事、ここにいるような感覚を覚えたし。時間が止まっているような。このままこうしていたい。そんな刹那な気分にもなったのだ。

この映画には、二人の男の「愛」のありようが描かれていた。
一人は若い看護士ベニグノ。彼はこの4年間昏睡状態のダンサー、アリシアの世話をしている。髪や爪を整え、全身をマッサージし、生理の処理までも。そして、絶え間なく彼女に語りかける。映画や舞台や身辺の事を、耳元で囁き続けている。

もう一人は、中年のジャーナリスト、マルコ。彼はよい年をして、なかなかに泣き虫だ。その涙が物語の接着剤のようになっているのが面白い。彼は取材で知りあった女闘牛士、リディアと恋仲になる。しかし彼女も試合中の事故で昏睡に陥り、ベニグノの病院へと運ばれた。


実に不思議な感覚に包まれていた。ぴくんびくんと私の体の部所部所が反応(感応)し始めた。ひっそりとだけれど、確実に。こそばゆいような、うっとりするような。そんな感覚。眠っていたものが目覚めるような。

中でも挿入された贋作のサイレント映画はーその気持ちの良さ、シュールさ、艶っぽさに、のめり込むように引き込まれていた。気がつけば、潤んでいた。あの時私は「女」だった。そう自覚していたのだと、今は思う。そして、これはすべての「女」のための映画ではなかろうか(もちろん、あらゆる男の中にも眠っている)。

意識を失い別の生き物になったかのような恋人に、触れる事も語り掛ける事もままならないマルコと、反応すら返ってこない相手に惜しみない愛情を注ぎ続けるペニグノ。そのどちらも私には興味深い。人に触れる快感と恐怖。反応乏しい誰かに語り掛け続ける快感と空しさ。介護という仕事の中で、私にも記憶がある。そのどちらも、私の中にある。

そして、昏睡の中にいるアリシアは、どんどん美しくなっていく。

女に限らず、私は仕事の中で、誰かに語り掛けられ愛され続けた人間が、不思議な生命力を発揮する場面を何度も見てきた。そして、それとはちょうど反対のことも。それらをフラッシュバックのように思い出しもした。


最後までこの物語は複雑だ。難解というわけではないが、複雑に絡み合っているという点で。それはまるで私たちの人生そのものだ。単純な人生などなく、誰かとの関わりを繰り返し、否が応にも物事は予想もつかない方向に進んでいくという点で(それが私の考えるところの人生だ)。「トーク・トゥ・ハー」は、そういう意味においても、人生を忠実になぞっている映画ではなかろうか。

おそらくは、正しくない事も醜い事も悲しい事も 、この映画の中には、多くある。眉をひそめたくなる人もいるだろう。人は時に狂信的で妄想的で、人の言葉や慰めなど耳を貸さない。ただ自分の人生を引き受けて、それを道連れに歩いているだけなのだ。ヒトリで。

それでも。何かを引き受けて歩く人というのは、いつも優しい。そしてそんな人たちが時に交わる。そんな人たちは時に道を踏み外そうと、決して誰かを傷つけない(誰も傷つかない)。私はそう信じている。ペドロ・アルモドバル監督は、いつでもそんな心優しき風変わりな人たちを描き続けているのだと思う。
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