「ドッグヴィル」ラース・フォン・トリアー/銀座シャンテ・シネ


あの、オモシロカッタのです。

阿部和重の「シンセミア」を思い出しつつ見ましたよ。

夜で始まり、語りで進められていくこの映画。「このままこれが延々続くのか?」と、不安がよぎったのも束の間でありました。

三時間の長丁場だわ、ロケもなく全てがワンセットだわ、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の監督だわ、前作以上の後味の悪さ。と、いう噂も耳に届くわ、で。全く期待していなかったのですけれど。いやいや期待というよりも、ある程度の覚悟を決めて。それでもあの、白線と家具だけで作られた「ドッグヴィル」という村を見てみたいものだよと、映画館に足を運んだ訳なのですけれど。これが、非常にオモシロカッタのです。

この映画は「ニコール・キッドマン」の存在なしでは、成り立たなかったという事だけは、確かだと思うのです。

もちろん、美しい人であるとは知っていたけれど。今まで、その美しさを感じる事がなかった、ニコール・キットマン。この映画で、その「美しさ」を改めて思い知らされる。気がつけば、彼女ばかり目で追い、見とれている。それは、物語が進み、終盤になるにつけ顕著になる。物語が、陰惨悲惨になればなる程、彼女の美しさが引き立っていく。言い換えれば、彼女の「美しさ」が、この物語の救いとなっていく。もっと言えば、その「美しさ」が物語を(良い意味で)絵空事に替え、生々しさを削いでいく。彼女の持つ「美しさ」は、一種独特だ。誰かや何かによって目減りしない。それに気が付く。だから、こちらに痛みや辛さや苦しさを伝えてこない。だから楽しめる。奇妙に安心さえする。私にとって「ドッグ・ヴィル」は「不快な作品」ではなかったのだ。それは監督の狙いと言うよりも、予期せぬ化学変化と呼ぶに相応しく。その化学変化は、最終的に爽快感さえ与えてくれたのだ。

終始語りがリードしていく作りも、この映画では悪くない。語りの通りに考えればよく、段々頭はモノを考えなくなる。謎は無くなり、思考は停止する。言われた通りと、そのままに理解し、次第に納得していくようになる。ただただ阿呆のように、美しいニコールの顔ばかり眺めていたような気もするし。

美しいモノ、気高いモノ、弱い立場のモノ。それを汚してみたいみたいという欲望は誰の中にもあって。それは、鼻垂らしているような小僧の中にも、私の中のオスの部分にもあるようだ。一皮剥いてしまえば、人間誰しもおんなじという事も。善良や純朴というものが、いかに表面的なものであるかという事も。ある意味、あまりに分かりやすく、やはり不快ではなかった。それをわざわざ見せられる事は、望んではいないにしろ。

とにもかくにも「ラース・フォン・トリアー」という人の持つ「確信的な悪意」は、よくよく伝わった。伝わった上で、もしかしたら、この「親切ごかし」「押しつけがましさ」は、嫌いじゃないかも。癖になるかも。と、汚れてなお美しい二コール・キッドマンをしげしげと眺めながら、ぼんやり思ったり。とにかく濃密で永遠を思わせる時間の流れが、なんだか気持ち良かった訳で。

とにかく、トリアーの新作がかかったら、また見たい。是非是非見てみたい。個人的には、エピローグとプロローグ、それぞれの章で別れて暗転で繋ぐという作りは気に入っている訳だし。見終わって好きと転ぶか、嫌いと転ぶかは、やはりまだ分からない。この監督には一抹の不安感と、拭いきれない不信感は、やはりどこまでも付いて回る事になるのだろうけれど。