「雨はコーラがのめない」江國香織/大和書房/2004/

しつこいようだけど、江國さんの小説が苦手で、ほとんど読んでいない。タイトルに惹かれて手に取り、パラパラと頁を捲ってみるけれど、苦手感は否めない。そこに登場する女の人たちが、嫌なのだ。怖くて。キレイで。強くて。迂闊に口を挟めない。覚悟めいた潔さを感じるから。

でもね、彼女の好きな本がある。絵本と絵画のことを書いたエッセイ(どうも私の好きなエッセイは、エッセイという言葉で括りきれないようだ)。いとしいもの良きものたちを、彼女のシャープな言葉で切り取った2冊。「絵本を抱えて部屋のすみへ」と「日のあたる白い壁」。

かつて私は、しばしば音楽にたすけられました。いまは雨にたすけられています


そしてこの本「雨はコーラがのめない」は、オスのアメリカン・コッカスパニエルの「雨」と「音楽」のことを綴ったエッセイ。先の2冊の妹分みたいだと、躊躇わずにレジへと運んでいった。もちろん、このタイトルにも惹かれて。

音楽について不思議に思うことの一つに、ときとして音楽は灯りになる、いとうことがある。レコードなりCDなりから最初の音がこぼれ落ちた瞬間に、そこに灯りがぽっとともる、あの感じ

相変わらず彼女の言葉はスパッとしていて、書き留めたくなる。読み飛ばしてしまうのが、もったいなくて、どの言葉も読み漏らすまいと神経をピンと張ってしまう。

もうじき四時になる。おもてがあかるくなると、夜に聴いていた音楽というものはいきなり光を失うから、その前に消さなくっちゃいけない


雨がだんだん視力を失っていく、くだりがある。そこで私は、うっかりと泣きそうになるのだけれど、泣かなかった。誰かを泣かそう、しんみりさせようとして、嫌らしく書いたものでないときは(むしろ、泣くまい、メソメソすまいと書いているときは)迂闊に泣いてしまうのは、失礼だと思うから。だから、むしろじっくりと、江國さんと雨の勇敢な(もしくはユニークなー江國さんも雨もユニークを良しとするのだ)冒険物語を読むような気分で、頁を捲っていった。

音楽を聴くためには自分の人生がいる…勿論たいていの愉しみには人生がいるのだけれど、音楽の要求するそれが、いちばん根源的だなと思う。それはつまり、人生経験ではなく人生がいるということ。たとえば赤ん坊は人生経験は持っていないけれど、人生は持っている。たった三歳の雨も、たぶん私よりずっと揺るぎなく人生を持っている


私と彼女は音楽の好みも全く違うし(私がうなずけたのは、シンニード・オコナーとスティングぐらいだったもの)室内で飼う小さな犬だって好きではない。それでも、彼女の言葉で包み直された音楽をいいなぁと思えるし(読んでいるだけで)雨を誇りに思えてくる。犬を飼いたいなぁと、つくづく思った。一緒に、冒険に満ちた散歩に行ってみたいし、部屋の空気ごと音楽を聴いてみたい。

私は言葉に依存しがちなので、言葉に露ほども依存していない雨との生活は驚きにみちている。驚きと。畏怖の念に

そうか、私は彼女の何か(絵本とか絵とか音楽とか雨とか)に対する姿が、好きなのだ。何が(何処が)自分を惹きつけるのか、ちゃんと知っている。分かって、きちんと対峙している。向き合うときの彼女の姿は、勇敢で、裸足でスクッと立ってる少女の姿だ。何にも属していない、何からも縛られていない。ひどく孤独だけれど、すごく満ち足りてる。それはあまりにも(私から見れば)完璧で破綻がなくて、やっぱりちょっとだけ(やっかみ半分に)苦手なんだけれどもね。

音楽も言葉には依存しない。歌詞がいい、というのは付加価値であって、音楽としての力には、それは関係のないことだ。だからこそ、雨の世界にも、私の世界にも、音楽は流れる