この人の閾/保坂和志/新潮文庫

makisuke2004-06-20


栗山さんがオススメしていた「この人の閾」を読む。先日アマゾンからたくさんの本と一緒に段ボール箱で私の元へ届けられたのだ。昔は、本は本屋で、ネットで買うなんてつまらない。と、思っていたのだけれど。買い物カートに蓄積していった本を、まとめて注文して、届いた段ボール箱を開けるのが楽しい。自分で頼んだくせに、何が入ってるのかな?と、ワクワクしてしまう気持ちは変わらない。自分から自分へのちょっとしたプレゼント気分か?今回の段ボール箱の中身は「へたも絵のうち/熊谷守一」「犬が星見た ロシア旅行/武田百合子」「人を助ける仕事/江川紹子」「ファンタジーおじさんをつつむ。/しりあがり寿」そして「この人の閾/保坂和志」後は、CDが2枚。スーパーカーのスリーアウトチェンジとベン・クゥエラーのシャアシャア。

本の話に戻りますね。保坂和志は「猫に時間の流れる」に続いて2冊目になるんだけど。「猫〜」の時は本に流れる時間のあまりの緩やかさに、少し驚いた記憶がある。そもそも私の読書というものは、あくせくした時間合間をぬって読むことになっていて。必然現実逃避的なものになる。だから、緩やかなとりとめもない本というのは大歓迎なはずなのに、何だかテンポを狂わせられた気がして、これは本腰を入れてゆったりまったりした気分の時に読まねば(合間合間で読むのでは)頭に入ってこないし楽しめないと、思ったのだ(そして、そのような状態の中改めて読んで、とても気に入った)。そんなことを思いだしたりした。

さてこの本「この人の閾」の話に戻りますね。

「汚くしているけどおいでよ、おいでよ」およそ十年ぶりにあったこの人は、すっかり「おばさん」の主婦になっていた。

と、文庫本の背表紙の所にもストーリー紹介がなされているので、これは主婦とか女性に対して、意地悪な話なのかな?と、思ったのだけど、まったく違いました。意地悪な所なんて、全然なくて、むしろ労りあうような気持ちになった。自分の知らない世界で生きている人や、違った立場の人にもおおらかで優しい目線を向けるような気持ち。あらゆる人にきっとバックボーンは存在するんだろうな。その人の見えている姿は、まさに氷山の一角で、その根っこには、毎日の暮らしや読んだ本や食べたものや交わした会話やなんかでできているのだろうなと、思った。ストーリーとしては、そのおばさんになってしまった真紀さんの家に行って、ビールを飲んだり、犬を眺めたり、庭の草をむしりながらお喋りをするっていう、ただそれだけの話なんだけれど。きちんと考えながら、何かを喋って、きちんと誰かと会話をする姿って、とても良いと思った。

中心を作るわけでもなく、家族のスキマのような部分にしっかりと根を下ろして生きている真紀さんという人。考えたことや読んだ本や見たビデオについてなんて、殊更に語ろうなどとしない。ただしっかりと自分の閾を守っているのは、伝わってくる。これが「この人の閾」なのだと。

「…いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、新で焼かれて灰になって、おしまいーーーっていうわけだ」
「だって、読むってそういうことでしょ」

読むってそういうことでしょ。っと言い切る真紀さんの言葉の端々からは「だって、生きるってそういうことでしょ」という言葉が聞こえてきそうだ。何かを言わずにはおけない、殊更に伝えねば気が済まない、自分の中のいやらしさを思うとき、そんな風に言い切るこの人の言葉が潔かった。もちろん、言葉というのは氷山の一角で、真紀さんというこの人が、なんの躊躇いもなく、この言葉を発したのではないということを重々承知しながら。それでも、カッコイイと思った。