「デットエンドの思い出」と「私は貴兄のオモチャなの」

例えばと、自分のことはすっかり棚に上げて書くけれど(そうしないと書けないし)女の子が(作家を含めて)、連れ合いやら恋人やら好きな人のことを書いている文章は、大概が面白くない。面白くないを通り越して、ときどき嫌な気持ちにされてしまう。何処から読んでも、それってその人(男の子)のことじゃないでしょ?と、思うからだ。それはアナタに都合の良い男の人の部分を切り取っただけでしょ?と、思ってしまうからだ。それでは相手がただの阿呆じゃないか?と、思ったり。男の子だって生身の人間でもっといろいろあるでしょって。もしくはその自慢話に私が当てられているだけかもしれないけど。そもそも私は心の狭い、人間だから。

それでもその昔、岡崎京子の漫画に、好きだ好きだ付き合って欲しい手を繋いで欲しい一緒にボートに乗って欲しいと唐突に言ってくる女の子を監禁して、強姦し続ける男の子の話(「私は貴兄のオモチャなの」だっけか?)があったけど、その漫画のことを時々思い出す。男の子は失恋で荒んでいたけど、何も特別な子じゃなかった。たぶん、当たり前の道徳感を持った、優しかったり楽しかったりオシャレだったりするありきたりの男の子。漫画を読み終わった時は、そりゃあ不快感満点だったけれど、何だかあの感じが、時々蘇ってくる。あの男の子は「好き好き好き」の女の子的暴力に、その妄想力に、力ずくの男の子的暴力で抵抗したんだ。力ずくで抵抗して、生の自分を突きつけたんだ。

同意が取れている間柄でも「好き好き好き」という女の子のパワーは、壮絶で圧倒的で手が付けられない。ものではなかろうか?やはり一種の暴力では、なかろうか?もちろん多分に私にだってそういう所はある。相手など関係がない。恋するその目は、焦点が定まらずに、相手のことなんか全く見ていない。その破壊力(とは普通は言わないか?)は絶大で、きっと男の子なんて不在でも構わない。誰だっていい。誰でなくったっていい。だから相手の顔が見えてこない。相手の男の子の存在を挟み込まずに、自分一人でヒートアップしていく。そもそもがそういうものなのだ。「好き」ってことは。

誰かによって切り取られた記憶とか、出来事は、いつでも歪んで存在する。それは薄気味悪いこと。だから、時々「相手関係ありません」と開き直った、妄想系の女の子の話(映画でも小説でも)は、面白いんだけれどね。「好き」なんて感情なんてさ「私がそう決めたこと」に過ぎないんであって、同意が取れてるものでも、相互linkを張ってるものでもないんでないの?そういう意味においてよしもとばななの「デッドエンドの思い出」は、薄気味悪い小説だったな。女の子が求めるものをぴたっぴたっととあてがってくるような小説。なんだかすべてが都合よくでき上がった、世界を覗いたみたいで。それならそれでいいのだけれど、それをヒトリの妄想と自覚しない所が、嫌嫌嫌嫌で。結果的に、それでも最後まで自分を押し通して、手を繋いでボートに乗った岡崎漫画の女の子は好きということになるのかな。