太陽と毒ぐも/角田光代

太陽と毒ぐも

痛いなぁ。この人の小説は、読んでるこっちが痛くてたまらなくなる。なんとなく連れ合いに「あのね、私に対して文句や不満があったらね、忌憚なく言ってくれて構わないんだからね」と言ってしまう。と言おうか、言わずにはおれないような落ち着きのない気持ちになる。それでも角田光代ぐらい潔く、格好悪くてダメで負けてる女を書く人を私は他には知らない。

登場してくる人達(男も女も)は、みんな何処かが歪んでいて壊れていてしょーもなくって、端から見たら痛いばっかりの「ばっかみたいな恋人達」だ。お風呂嫌いの彼女にイラつく男や、通販マニアの彼にウンザリする女、万引きを繰り返す女に次第に薄気味悪さを覚えていく彼や、包み隠せぬ彼女に洗いざらい喋られてしまう気の弱い彼氏とか。相手のことが好きなはずなのに、日常の些細な場面がひっかかり「好きだ」というその気持ちにもうっかり泥を塗ってしまう。もしくはイラついた気持ちに囚われて「好きだ」の気持ちを見失ってしまう。日常を笑う者は、日常に泣く。じゃあないけれど、どんなに愛を確認しあったそのそのすぐ後にだってお腹が空くしトイレにも立つ。それは至極当たり前の真理で。ハッピーエンドのその先の、だらだら続く日常というのは、どうしてこんなにもばかばかしいくって、コメディのようなのだろうかと思ったり。

作者同様「コイツらみんな馬鹿だよな」と思うのだけれど、どこか芯からは笑えない。それはやはり作者が言う通り「ページのそこここに、些細なことで恋を失ったり愛をただんと踏みつけた私自身のばっかみたいな影がはりついている」からかもしれない。

何か一言ぐらい彼ら(ばっかみたいな恋人達)に言ってやろうかとも思うんだけれど、結局は言葉にはならない(だって私だって似たり寄ったりのモノなのだ)し。言っても仕方がないダロウし。私が言えることなんて、登場人物達の誰もが分かっていることダロウしね。

角田光代を読んでいると、結婚(ずっと一緒にいようと約束)するってことは、一緒にいると楽しいからだとか、趣味や価値観が一緒だからとか、そんなことは本当はどうでもよくって、うんざりや退屈や諦めや絶望(といった闇)をおんかなじだけ毎日や人生に感じている者同士がもたれ合う、そんな優しい行事なのかもしれないなぁと、思ってしまう。

「誰かを強く愛することと、冷蔵庫を空っぽにするその誰かに苛立つことは、決して矛盾しない」その言葉に深々と頷かずにはいられない私だけれど、それでも、私は別の真理みたいなモノを信じているし。そんなものじゃないだろう?と、何処かで思っている。だから、角田光代の小説は、私は素直に好きと言えないし、(リアル過ぎて)苦手なのだけれど。それでも、角田光代という人の中にも「別の真理みたいなモノ」を探し求める姿を感じるから「そんなものじゃないだろう?」と問い掛け続ける声が聞こえるから、彼女のことは決して嫌いにはなれないなと思う。