西荻窪キネマ銀光座/角田光代

西荻窪キネマ銀光座
京都にある小さな映画館「みなみ会館」の話を教えてくれた、のぶさんのコメントを読んでいたら、この本を思い出した。「西荻窪キネマ銀光座」ーそれは架空の映画館で。繁華街からほんの少し離れた、なんの変哲もないちいさい町。あくまでも例えばの話、東京の西荻窪あたりにそんな古い映画館があったら?そこでこんな映画がかかっていたら?というコンセプトで、作家の角田光代さんと漫画家の三好銀さん(大好き!)が23本の映画にまつわるreview(というより私的感想)と漫画をセッションしている。三好さんの漫画がノスタルジックといかがわしさと静かさを盛り上げてくれて、とっても良い本になっている。登場する映画の方も実にバラエティーに富んでいて「ローマの休日」や「ジャッキー・チェンもの」「エレキの若大将」があったかと思えば「ポンヌフの恋人」「オール・アバウト・マイ・マザー」があり、さらにはジョン・ウォーターズの「ピンク・フラミンゴ」があったりもする。そのひとつひとつにきちんと角田光代という人の、これまでが詰め込まれている。

恥ずかしい話だけれど、私はこの本で角田さんのreview(というより私的感想)を読んだ時、少し嫉妬してしまった。それは決して角田さんのreviewが良くできていたからだとか、鋭かったからとか、取り上げているものが通好みだったからではなく。その私的ぶりに、感服したのだ。私はこんなにも個人的に映画を観ているだろうか?映画を自分の内に取り込んでいるだろうか?関わっているだろうか?必要としているだろうか?覚えているだろうか。何もかもを?と、自問自答してしまったから。

私は思う。映画を観るでもそう、何かを聞くでもそう、何かを読むでもそうだけれど。何を観たか(聞いたか、読んだか)じゃなくって、どこまで観たか(聞いたか、読んだか)だと。何処まで咀嚼して飲み込んで吸収して自分の栄養になったかだと。溢れ替える情報の中に生きている私たちは、時にキーワードの羅列のように何かを摂取してしまう。それを良しとしてしまうけど。私はそれを良しとしたくない。どこまでも私とアナタの一対一の関係で、映画なり音なり本なり絵なりに接していきたいと思うから。

そして(余談ですが)、角田光代という人は、エッセイと小説の両方を絡めながらに読むと面白いと思うのです。彼女の小説に登場する堂々とした「ダメ女」が、彼女のがんとした信念で(?)書かれているのが分かるので。彼女は「ダメ」を肯定している。その肯定ぶりが、力技となって、気持ちの良い「ダメ女」を書ききれるのだと。分かりました。