ソバ屋で憩う/杉浦日向子とソバ好き連

id:maico20さんの日記で杉浦日向子先生訃報を知る。我が家にも何冊か先生の本や先生が解説を書かれた本があるわけで、その早過ぎる知らせは、とても気持ちをしんとさせました。「ソンナニイソイデドコヘイク」そう言っていたのは、先生だったのに。何とも皮肉です。この世の中は。追悼の気持ちを込めて、過去レビューを(2001-11-12書く)載せておきます。

ソバ屋で憩う
「明日、浜田山の仕事入ってもらえます?」なんて電話があったモノだからもうアタマの中は、蕎麦。新蕎麦。「安藤」の蕎麦でいっぱい。「安藤」には少しご無沙汰しているかな?この間行ったのはまだ夏の盛りの頃、Tシャツ姿だったような記憶だから。

店に入る。打ちっ放しのコンクリートの店内。それが少しも冷たい印象を与えない。使い込んだ木のテーブルのせいか、ひっそりとある暖炉のせいか、店内でくつろぐ地元のお年寄りのせいか。は、定かではないが、なかなか居心地が良い。座るなり迷わず「大もり」。ここの店は、鴨が有名。「鴨なんばん!」といきたいところだけど、今日は蕎麦。蕎麦そのものが食べたくって、もり。それも、一枚たぐり終わったところで、もう一枚といきたいところだけど、お腹がかなりくちくなる。それも何だかもったいない。ので「大もり」。

で、蕎麦が来る。ざるに盛られた、みずみずしく、つややかな蕎麦。水切りの加減もいい感じ。まずは何もつけずに、少しだけ口に入れる。甘い。蕎麦の香りがする。はかない。かそけき香り。とでも言えばいいのか?明確な輪郭がないようにも、わたしは思う。それでも、確かに香りはあって、それは、ずずずずいっと空気と一緒にすすり上げてやるとよく分かる。さわやかになる。すがすがしくなる。深呼吸でもしているみたいに、カラダが新しくなる。だから蕎麦をたぐっていると、しぜん箸の動きが早くなる。ずいずいずいずい。休みなく動かしてしまう。もっともっとと意地汚くなってしまう。少し恥ずかしいけれども、構ってられない。ので、構わない。

でもって、山葵。山葵はつゆに溶かさない。山葵の味も楽しみたいから。山葵ってこんなに甘いのね。華やかなのね。とか、食べる度にヒトリ感心。そう感心したいから、溶かさない。蕎麦にちょこっと乗っけて、そのまま箸でたぐる。たぐってやる。

そして、つゆ。おそらく鰹節と昆布と醤油と酒とみりんか何かで出来ている。それは間違いないのだが、どれも出しゃばっていない。から、実体がない。渾然一体となっている。丸くて深くて頼もしくって。だからつゆは、ちよっぴりでいい。きゅっと締めるぐらいのつもりで。山葵で始まりつゆでしめる。それが蕎麦の味を限りなく引き立ててくれる。とかなんとか思いながらも、ひたすら、ずいずい。ずぞっずぞっ。ぞぞぞぞっ。

そしてそば湯。好みは少しとろっとしたポタージュタイプなんだけれども。この日のそば湯のうまさは、格別でしたよ。ぱっーと広がった香りは、今まで無心にたぐっていた蕎麦の、それを凌ぐ勢いでした。蕎麦を改めて味わい直す、そんな一時。とでも言えばいいでしょうか?しばし呆けていましたよ。わたし。

あの日の、蕎麦は美味かったです。
あの日も、蕎麦は美味かったです。

 
「ソバ好きの、ちょいと生意気なこどもは、いますぐ、この本を閉じなさい。十年早い世界ってものがあるのですよ。」

杉浦さんは書いている。わ、わたしのこと?と少しビクビクしながらも、でも、閉じない。酒も言うほどたしなめない。でも、閉じない。昼時を少しずらして、でもまだ日のある内に、ふらふらとソバ屋に行こうよ。卵焼き、鴨煮、板わさなんか注文して、ぬる燗で喉をしめらそうよ。そして、喉が温まってきたところで、蕎麦といこうか。温まった喉を蕎麦できゅっと締めてやろうよ。だから「ソバ屋で憩う」憩いたい。いつぞやきっちり憩ってみせる。たまにはと言わず、ちょいちよい憩って。仕事に限らず毎日も、上手にサボって、心置きなく大人になろう。

ソンナニイソイデドコヘイク

まったくもってそのとおり。