この頃の読了本

makisuke2005-10-16

空中庭園

だってさ、だれも憎んでもいないのに、ぼくらは憎むってことを知ってて、とくべつさびしくないのに、さびしいってどんなことかわかるだろ。ぼく自身ここしか知らないのにだよ?

角田光代の「空中庭園」読み終わりました。角田さんの本をココロから好きといえるのかどうか、未だもってワタシには分からないのだけれど。同世代のおんなじような年月を生きてきた人の、実に近しいリアルな感触をいつも感じさせてくれるのだけは、確かかもしれない。そして読み終わって、複雑な余韻の中に長いこと引きとどめられるのも、確かかもしれない。事実、読み終わって随分時間が経つのだけれど、ワタシは今でも鬱ぎの虫に取り憑かれていたりする。時々ワタシが読書全般から逃げてしまいたくなるのは、いつでもこんな時だ。ワタシの中に鍵をかけ隠し通そうと決めていた気持ちを、無理やり抉じ開けられてしまうような。そんな感覚に囚われてしまう時。

異常ともいれるテンションで「光」を求め「闇」を排除していこうとする、この家の主婦、絵里子の行為は、ヒトゴトには思えなかったり。彼女やワタシが後生大事に守っているものは、端から見たら実につまらないものなのかもしれないし。誰かの秘密なんて、実は馬鹿馬鹿しくって、薄っぺらいモノなのだろうな。家族って、たまたま同じ舟に乗り合わせてしまっただけの、得体の知らない人間同士の集まりなんだろうかな。そして、人と人は寄り添えば寄り添うほどさみしくて、理解不能なモノなのだろうかな。この本の読後感は、おそろしくやり切れない。のだけれど。同時に感じる、それでも誰かと寄り添っていたいという気持ち。もしくは、そんな毎日も悪くないのではないかという気持ち。温かな気持ちをお腹に抱いてそっと膝を抱えたくなる気持ち。こんな気持ちになるのだから、ワタシはきっと読書全般と決別できないでいるのだろう。と、思う。

庭のつるばら (新潮文庫)
庄野潤三さんの「庭のつるばら」読み終わりました。いやはや、よかったです。嬉しい。よかった。おいしい。の短い雨垂れのような文章が、確実にワタシにしみ込んでいくようでした。古きよき日本がまだここにありました。良きものをいただいて、おすそ分けして、またいただいての繰り返し。散歩して、ハーモニカを吹いて、奥様はピアノのおさらいをして、庭の草花を眺めての繰り返し。毎日は途方もない繰り返しの毎日だけれど、こんな繰り返し、ちょっといい。ご本人の書いたあとがきに

同じようなことばかり書き続けて飽きないかといわれるかも知れないが、飽きない。夫婦の晩年を書きたいとという気持ちは、湧き出る泉のようだ

と、あるのだけれど。そのコトバをそのまんま借りるならば「同じようなことばかり読み続けて飽きないかといわれるかも知れないが、飽きない。夫婦の晩年を読みたいとという気持ちは、湧き出る泉のようだ」ということになる。庄野さんのハーモニカに合わせて、奥様が歌ったり、指でヤドカリを作って突進させる様が、実に実に微笑ましい。ココロに温かいハーモニカの音色が聞こえてくるようだった。