介護マシーンとしてのワタクシとレベッカ・ブラウン

コントラスト



自分の容量の小ささを実感する日々。この頃の私はとてもとても小さいみたいだ。例えば、患者さんなりその家族なりに恵まれていたなと感じながら、働いて日々を思いかえす。わたしは恵まれていますからこの仕事苦ではないですと屈託なく答えていたわたし。患者さんなりその家族なりは「それはあなたがよい子だからよ。あなたがよい子だからよい人が集まるのよ」と、手放しで褒めてくれたものでした。その時わたしは年甲斐も無く「よい子」と言われたことにびっくりして、そしてなんだか頭を撫でられたみたいに嬉しかったっけ。その頃を思い返すと、彼らのなかに「よい子」の自分が重ねて見えていたように思ったりする。自分の中の「ヨキモノ」が相手の中の「ヨキモノ」に呼応してたような。


だとするならば、近頃の私はどうだろうか。頑固で排他的な患者さんに会う度、ヘルパーに対して不信感だらけの家族に会う度、誰彼かまわず敵意剥き出しの患者さんに会う度、そこに自分を見てしまう。この頃感じるこの仕事へくたびれ感は、自分に対するくたびれ感であり。ウンザリ感でもあるんだろうなと。逃げ出してしまいたいのは、仕事に対してか毎日に対してか自分に対してか、分からなくなる。だから、近頃誰も私を子どもみたいに「よい子」とは呼んでくれないし頭も撫でてはくれないの。当たり前だけどね。


そんな昨日、いつものように機嫌が悪いとオムツ交換を拒み殴りかかってくる認知症のおじいさんのサービスに入った。その時おじいさんに言われたのだ。「アンタ恐い顔してるよ、恐いよ。そんな顔してる人に、いろいろ(オムツ交換とか清拭とか着替えとか)されるの嫌だよ。もっとこういう顔してなくっちゃ」って。両手を自分のほっぺにあてて、ぎゅうっと上に押し上げて無理矢理笑っている顔を作ってわたしに見せた。あああああっつ、そうだよねー。と思い知った。今、ここに鏡があったら(なくったって)自分の顔が今どんなかよく分かる。「オムツ交換を拒み殴りかかってくる認知症のおじいさん」に負けないように怯まないように全身武装していたんだろうなあと。彼を打ち負かしてコントロールして時間内に自分のやるべきことを完璧にやり遂げなければと。まるで喧嘩腰だったんだろうなあと。


今にはじまった事ではないけれど、わたしは小さい。あまりに狭く。いっぱいいっぱい。それに気が付いても、なかなか方向転換さえままならない。だけど「オムツ交換を拒み殴りかかってくる認知症のおじいさん」の中にも残ってる「その人」を、ヒトツでも知りたいとこの仕事に就いた時、真摯に思ったはずじゃなかったか?誰の中にも眠る「よい子」と友達になりたかったんじゃなかったか?と。なのにだのに、わたしはダメだ。いつまでたってもこんな具合だ。がちがちでごちごちでぎすぎすしてる。とりあえず、その日はやけくそみたいに笑って笑って笑ってみた。やけくそだってなんだって、笑う事からはじめてみようかと。むりむりの笑い顔を貼り付けて働いてみた。誰もわたしを傷つけない。誰もわたしを傷つけない。誰もわたしを傷つけない。そんな当たり前の事を、時としてわたしは忘れるけれど。全身武装して臨む毎日は、あまりに悲しいことだと思ったから。


そんなわたしが時々読み返す人。わたしの教科書。わたしのバイブル↓

家庭の医学「家庭の医学」』レベッカ・ブラウン


私にとって3冊目のR・ブラウンとなる「家庭の医学」を、読み終えた。


厚い本ではない。 簡単に読み終わってしまいそうなこの本を、わたしはとても時間をかけ、一言一句読み落とすまいとして読んでいった。終えて、一つ息を吐いた。温かい飲み物を一杯飲んだ。そしてもう一度、この本を最初から読み返して、今、このレビューを書いている。 それが私に出来る、彼女への一番の敬意の表し方ではないかと思ったから。


この本に書かれているのは「大切な人を看取る」ということ。ただそれだけだ。 訳者である柴田元幸さんの言葉を借りて説明をするならば「母親が癌に侵されていることが判明し、その手術や治療に立ち会い、やがて亡くなった母を見送るまでを綴ったノンフィクション」ということになる。

読み終えた時、その印象があまりにも美しく静かで清潔的なことに、実は少し戸惑った。 人が最期に向けて決して美しくはいられないことを、わたしは「仕事」を通じて知っている。人は最期に向けて、言ってみれば醜くなるのだ。それは形だけに留まらず、匂いであれ色であれ言動であれ、そうなのだ。人は最期に向けて少しずつ、変わっていく。「その人」の部分をなくしていくのだ。本当に悲しいことだけれど、それが「死んでいくプロセス」なのではないだろうか。


しかし、読み返してわたしは気がついた。そして安心もした。この本が美しく静かで清潔なのは、人の最期を美しく切り取ったからではないのだ。彼女はコラージュなどしていない。むしろ正直であろうとしている。実直なまでに、あらゆることを書き記そうとしているのだ。

だからこの本は、グロテスクなのかもしれない。


それでもこの本から溢れて止まない静謐さとは、気高さとは、清潔さとは、ナンダロウか? それはきっと、これを読む私たち、そしてこれを書くR・ブラウンの「願い」であり、「祈り」であり、立ち向かう「覚悟」のようなものではないだろうか。その「心」が溢れているからではないだろうか。
彼女は、いつでも「心」と「体」を分けている。その行為を私は支持したい。「体」に起こったことを記す時の、彼女の言葉が好きなのだ。そこに「心」を挟み込まない。いつでも「心」は後から付いてくる。そして彼女の「目線」が好きなのだ。何物にも動じない、フラットなその視線。残酷なまでのその視線を、私はひどく誠実に感じるのだ。私もいつかそんな「視線」を持ちたいと思うのだ。


そして「仕事」に向かうわたしといえば、いつだってひどく具体的なのだ。 とにかく「体」を清潔にさっぱりとさせること。静かにゆったりと過ごさせること。出来うる限りの不快を取り除くこと。一緒にいること。 それが,少しでも「楽」に繋がることを祈りながら。私に出来ることは、やはりそれぐらいのことなのだ。人が出来ることは、いつだってつくづくと小さいのだ。


「私たちから見れば、母が死んでいくというのは、体が震え、汗をかく、そういう出来事だった。でもそれはあくまで体の試練すぎなかったのだと私は思いたい。母のどこかほかの部分は、何か別のものによって助けられていたと私は信じたい。何か優しいものによって母が助けられていたと私は信じたい」



そしてわたしも信じたいのです。 わたしが介護している人たちの試練が「体」に起こっているものであるということを。 ほかの部分は、何か別のものに助けられているということを。 優しいものによって助けられ、温かい所に向かっているということを。 そしてその人が、いつまでもその人であり続けることを。 祈ってやまないのです。