ゆれる/西川美和


「ゆれる」のことを、もう少し考えている。私はあの映画を見ながら、いろんなことをすごく考えた。それはあくまでも個人的なこと。だけど、ある種の作品に触れていると、個人的な考えごとがとてもとてもはかどることがある。そして、ずっとそんなことばかり考えているために、その作品自体がよいモノかさほどよくないモノなのか分からなくなってしまう。「ゆれる」はそんな、すごく個人的な映画だった。誰に勧めていいか、よいよと言ってよいか、正直よく分からない。


私はたぶん親しい人の知らない面を見るということが、とてもとても苦手なのだ。親しいよく見知った人を、だから時々ひどく平面的に捉えてしまう。その人の持つ、当たり前の陰影(なあんて大げさでなくても)をみる勇気みたいなモノが大きく欠落してる。平面的に捉えたい私は、幾ばくか、相手が平面的であってくれよと強いているのだなあと。そんなことを思った。知らない面を見せることさえ許せない、ひいては、同じものを見、同じく感じ、同じことを楽しみ、同じものを食べ、同じ顔つきをしていなくてはならないというような。そうでなくては、どこかで許せないというような。とてもとても了見の狭い私が存在してる。みたいだ。そしてそれは、限りなく大きく得体がしれない、私の中にあった気持ちの悪い感情で。そんな見知ったはずの自分の中の知らない面を見たことでも、また、私は驚き、いたたまれなくなり、少しだけぶるぶると震えが込み上げてきた。


あの映画の中で、オダギリジョー扮する弟君は、「兄とだけは繋がっていると思っていました」と話す。画面を見ている私は、その繋がりがよく見えなかった。だから、その告白はやや唐突にも感じたのだけれど。もしかしたら、弟君は、兄の中には理解しやすい与しやすい勝手な安楽をみていたのかもしれない。兄の当然持つ、憤りややるせなさ行き場のない感情をみることなく、簡単な姿に置き換えていたのかもしれない。ただただ弟君が言うように、平然と奪うばかりだったのかもしれないと。兄の存在の及ばない世界で。と。半ば愕然としながらも、私はただひたすらに考えた。まるで、許しを乞うみたいに。


ラストシーン、古いフィルムを見ていた弟君は、不意に気が付く。自分が見えなくなってしまっていた、大切なこと。それは、見知っていたはずの親しい人の、でも知らない様々な顔の陰に隠れた、「事実」。人は「真実」に固執するあまり「事実」が見えなくなるのかもしれない。もしくは、その逆でもかまわない。ただ、何かだけを殊更に求めれば、いろんなことが、見えなくなる。見ることを拒んでしまうかもしれない。それは、グロテスクな行為であると。少し冷静になった私は気が付いていた。


だけどだけど、弟君は、兄が好きだった。あの時映画館では見えなかったものが、今の私にならはっきりと見えるような気がしてる。好きだったということが、なんの弁解になるのかは分からないけれど。いやむしろ、弁解になんてならないのだけど。好きという感情が、たぶんたくさんのことを見えなくして。でもでも、好きという感情だけが、あのラストシーンに辿り着けたんだと思ってる。たくさん時間がかかったけれど、随分道に迷ったけれど、帰る家はちゃんとあった。手を引くのは今度は弟君の番かもしれないけど。どちらかが迷ったら、どちらかが手を差し出して。それを繰り返し繰り返し。家路につけばいいと思った。だって二人は家族なんだから。


寒い寒い、あまりに寒い夜のこと。静かにそう思った。昨日買ってきたばかりの「ごろ寝マット」に座って、ツマミを最強に上げたりしながら。膝には猫をのっけて、あたたかい飲み物を飲んだりしながら。だってだって、家というのは、何時だって誰にだってとてもとてもあったかいものであるはずなんだから。って。