天然コケッコー


映画がしっかり呼吸してた。
耳を澄ますせたら、映画そのものから生まれる音が
私に届くような気がしたー。
だから
ひとつも聞き漏らさないように
私も大きな耳になって
私はこの映画に包まれていたー。


ずっとずっとずっと観たいと思ってた「天然コケッコー」今夜やっとみてきました。ずうっーと前に映画館の予告編でみて。うわあっつとなって。その、私の中に浸透していく幸福感というヤツの、スピードと深さが尋常ではなかったので。これは絶対絶対映画館でみてやりましょう。と、ココロに堅く誓いを立てていたのだけれど。今夜、とうとうその誓いを果たして参りました。


田舎という名のフルサトで育った私には、スクリーンの中の様々がほんとうにほんとうに近しかった。田舎というヤツの、キレイさとキレイでなさ、気持ち良さと気持ち悪さ、広さと狭さ。それやこれやの相反するものが違和感なく同居しいて。それが嬉しかった。嬉しくなって、自分が眺めているのが、スクリーンだってことを時々忘れてしまったりした。


「そよ」という女の子も、用心深さと大らかさ、繊細さと天然さ、弱さと弱くなさ、そんな相反するあれこれが同居してる女の子だった。走っては転び、転んでは考えて、考えたらば走り出してる。たくさん凹んで、でもまた笑って。ひとつひとつちゃんと触りながら生きてるような女の子だった。分からないこと出来ないこと愚かなこともたくさんあるけれど、ちゃんと「ある」女の子だった。それがやっぱり嬉しかった。(彼女のの周りの人達もやっばり、ちゃんと「ある」人達なんだなーってことが溢れてて、それも嬉しい要因のひとつだった)。


自分の中で育っているモノ。ちゃんとあるんだね。それをゆっくりゆっくり確認しながら、彼女自身も呼吸してた。呼吸しては、誰かの何かの呼吸に耳を澄ませてた。まだカタチにならなくったっていいんだよ。ただ、胸に届くあれこれをしっかり見て触って聴いて覚えておけばいいんだよ。って、言ってあげたくなった。世界は絶対あなたにやさしいからって。


そしてそれは、自分の中にも確かにあった「あの頃」を思い出させるモノだったし。今もって変わらずにある、私の中の「あの頃」にふれる時間でもあったりした。だから自分自身にも言ってあげたくなったりもした。


急ぐことはないんだよ。って。
ちゃんと耳を澄ませたら、世界はちゃんと繋がってるよ。って。
分からないことは分からないままでいいんだ。
カタチにならないモノはカタチにならないまんまでいいんだ。
ただ
たくさん
触って見て聴いて覚えておけばいい。
立ち止まって考えてちゃんと感じておけばいい。
伝えられることは言葉にしてみればいい。


世界は始まったばかりで
約束もないし
確かでもないし
ややこしいことがたくさん待ってるかもしれないけど
でも
絶対
絶対
世界はあなたにやさしいからって。