「真鶴」から「無銭優雅」まで

makisuke2008-03-03

真鶴



川上弘美「真鶴」を読み終わったのは、随分前のことだけれど。わたしの言葉に置き換えるまでには随分時間がかかったし。もしも読み返すことがあるとしたらば、やはり随分先のことになると思う。


この本は、読んでいる間も読み終わっても、なかなかなまなかでないものがつたわってきて。川上弘美の「覚悟」みたいなモノが伝わってきて。その覚悟からしばし逃れられなくなったままだった。最後は読みながら嗚咽のようなモノが込み上げてきた。こんな風に身を捩りながら本を読んだこと、わたしには今まで一度もなかったし、おそらくはこれからもないと思う。辛かった。苦しかった。重かった。わたしの物語のようだった。「不在」というのは、暴力的だと思った。不意に力で捩じ伏せられるような暴力は、ブラックホールのような吸引力で気持ちや景色や時間や出来事を飲み込んでいく。その力の前に私たちは無力で。無力だから切ないし。無力だからもどかしいし。取り返しがつかないようにも思ってしまう。こんな風に奪われ続けてしまうなんて、理不尽だとも思った。あんまりだと思った。気持ちや景色や時間や出来事を、不在のブラックホールが飲み込んでいく。飲み込まれた人間は、気持ちや景色や時間や出来事がそっくり抜け落ちて、現実感がないまま現実を漂うしかないのだ。なんて。そこで人間は深い井戸の中に潜って身を固くしている二枚貝のように頑なに成らざるを得ない。なんて。頑なは新たな相容れなさを産み、新たな人へと不在の暴力が伝播していく。なんて。なんて。なんて。誰かにこの理不尽を不公平を訴えあげたくなったりもした。


だけどもわたしは、この本を読み終えた。お終いの最後まで読み切って、そこには一抹の清々しさが用意されていた。薄く明かりもさしていた。不思議と心が凪いでいくのも感じてとれた。ブラックホールがぐるりと反転してホワイトホールになるような、新しい予感の匂いを確かに嗅いだ。それがすごく頼もしかった。なんであれ、腹を括って終いまで行きつくこと。やりきってしまうこと。どうどうとここに居続けること。それだけが、この不在という名の暴力に打ち勝つ秘訣なのかも知れないと。そんなことを思いながら。決意の握りこぶしを、ひとり固めてみたりした。

無銭優雅 姫君 風味絶佳



山田詠美「無銭優雅」を読む。山田詠美…と口にしただけで、あああん、私(俺)苦手だからあ。と、切り返す人のなんと多いことよ!かくいうわたしも実はその口だったけれど。「あああん、あの人は山田詠美を読む人ね」と括られることに一抹のおちつかなさを覚える人でもあったけれど。短編集「姫君」の彼女を読んで、短編集「風味絶佳(http://d.hatena.ne.jp/makisuke/20050817#p2)」の彼女を読んで、わたしは彼女ととても親密になれたような気がした。今のわたしは山田詠美を読む人。と、括られたがってさえいるのだから。


わたしは彼女の書くー女性が、男性がーその二人の繰り広げる恋情が、どんどん好きになってるみたいだ。その筆頭に上げてもいいのが、この本になりそうだ。「無銭優雅」。よかった。すっごくすっごくよかった。「真鶴」の対局にあるけれど、どっちもわたしなのだなと思うぐらいに好きになった。この大人になり損ねた男と女が繰り広げる恋愛は、自分自分なのに、普遍的で哲学的で理想的で。なんてったって潔がよくって気っ風が良くってノー天気で、ばかばかしいぐらいに真面目なんだな。出し惜しみせず、ありったけをさらけ出し合うこの二人には、今、今、今、を積み上げていくデジタルな可能性を感じたよ。お互いを心底褒め合って、美味しいものを一緒に食べて、愚にも付かない話しを山ほどして、そんななんでもない時間をたくさんたくさん積み重ねる。そんな恋愛のスバラシサがこの本にはみなぎっているのだよ。お終いの最後の数ページ読み切ったのは、ほぼ満員の中央線の車内だったんだけど。思わず込み上げる涙に参って。続いて押し寄せた、堪え切れない幸せ笑いがおさえらんなくて。もっと参った。本当に、参って参って参ったーと声に出したくなって、もっと参った。


恋愛において一番大切なことって、やっぱり何処までも真面目であること。これに尽きると、わたしは思うんですよ。ええ。