おそいひと@ずっとアナタのこと考えてました。

白、水色、灰色、




まだまだしつっこく、映画「おそいひと」のことをずっと考えていました。思い出すのは、住田さんが介護の女子大生に「普通に生まれたかった?」と訊かれる。あのシーン。介護の女子大生は、くったくなく、こともなげに住田さんにそう尋ねる。あのシーン。住田さんはボイスボードの機械音を使って「コロスゾ」と答える。あのシーン。



私はその一言を聞くまでの時間が、この映画の中でいちばん怖かった。心底、怖い。「こわいひと」だと思ったのだと、以前自分の感想の中で書いたのだけどー   



違うと思った。本当に怖いのは「普通に生まれたかった?」と、もしくは、そんな風なことをいろいろに言葉を変えて、言っている本人さえ気づかずに発してしまう、わたしを含めたひとたちの方なんだーと、ここまで書いて。自分の言葉のあまりの薄っぺらさに、本気でがっりしてしまって、もういいや書かなくってもお。と、何度もいぢけて断念してしまいそうになってるけど。でも、書く。うんうん唸りながらも、書くのだ。わたしは。


おそいひと」の正しい感想を読む(http://d.hatena.ne.jp/Shipbuilding/20080228)。


この映画の映画文法的に優れていたのは、この「コロスゾ」の相手が、「普通に生まれたかった?」と訊く介護の女性に実行するのではなく。住田さんと正しい関係を気づいていたはずの男性介護士に向けられたところだ。住田さんを大切に思っていた人を殺さざるをえなくなってしまったところには、映画的に正しい狂気が美しく描かれていた。というトコロに、納得をしてモニターの前で激しく頷く。

そして自分が書いた住田さんはやはり捩れている。それは人間が持つ当たり前の捩れなんだけれど、それは障害者という要因によってさらに複雑な方向に捩れていると思うんだ。捩れたモノは本来禍々しい力がある。その力の大きさと醜さに、私は益々目が離せなくなりながら思ったのだ。禍々しさに気づかず、分かりやすく他人を理解し、人間を人間として恐れず接するってことは、とても危険なことなんだって。



という感想に(http://d.hatena.ne.jp/makisuke/20080223#p1)またもや激しく残念な気持ちになる。わたしは本当に残念な人だとわたし自身を哀れみながら、それでも、書く。書くのだ、わたしはと。


そして、ガチャポンをやっていた住田さんを思い出す。タケさんと仲良くカレーを食べていた住田さんを思い出す。登れない石段の前で止れを強要される住田さんを思い出す。ライブに出掛けていく住田さんを思い出す。女子大生に恋心を抱く住田さんを思い出す。思い出す。思い出す。捩れていると、歪んでいるとわたしが言い放った住田さんの毎日が、わたしの中で違った色味で見えてくる。きちんと正しく人々と関わっていた住田さんを思い出す。モノクロだった画面が、わたしの中で色づき始める。



ギリギリのトコロで折り合いをつけ、自分の中にあるモノや他人から向けられるモノに折り合いをつけ、毎日に折り合いをつけ、その中で住田さんは楽しそうだった。可愛らしかった。それを捩れている。と言ったわたしは、わたしこそが捩れている。んだと、やっぱりそこに辿り着いてしまった。



せめて、と、今のわたしは思う。せめて、清々しい言葉を持ちたいと。もちろんそれは大きな責任のようなモノがついてくることだ。大きなリスクがついてくることかもしれない。でも、それでも、そういうカタチでは正しくありたい。言葉と自分がひとつになりたい。そういうカタチの正しい言葉を持ちたい。と、全然まとまらないし、まだまだちゃんと言えてないように思うけど、今日はここまで。のうみそしにました。