彼女ももしかしたらおんなじなのかもしれないという一考察

なぎちゃん、うーちゃん、わかさま。



三人の子供の母親である妹(四女)からメールが届く。幼稚園の春休みが始まった妹は、とにかく今殺人的な忙しさ(彼女に言わせるとスーパー忙しい)のただ中にあるらしい。末っ子は夜泣きで、長男はヨウレイ菌と新しい幼稚園に移る準備で、真ん中は幼稚園に入園なのに腕をひねっていて接骨院で、その上、どこに行くにも三人連れでぞろぞろ移動しているということらしい。とにかく妹は、わたしが知る中で一番忙しいスーパー多忙母さんであることには、間違いがない。妹と話をしたりメールをする度に、わたしが自分の時間やお金をそっくりそのまま自分のために使っていることに、後ろめたさのようなものを感じずにはいられない。自分のことであれやこれやと悩んでいる自分が、まるで暇人のようにも感じてしまうし、自分のしていることの非生産性や呑気さ加減にくらくらしたりもする。それは妹との関わりに限ることなく、世の中のことや、もっと広い意味での世の中のことに対しても感じてしまう。わたしは贅沢なのかもしれない(いや、きっと贅沢だ)。贅沢で暇人なのかもしれない(いや、きっと贅沢な暇人だ)。それでも、それならばと考える。贅沢で暇人なわたしが、妹や世の中やもっと広い意味での世の中の人たちの大変さに報いるためには、わたしはわたしの楽しみに没頭しようと。没頭して没頭して没頭しようと。それしかないのではなかろうかと。


そんな忙しい最中にありながら、妹は時々わたしに映画や本をすすめてくれる。それは、どんな種類のものであろうとわたしには嬉しいし、必ず目を通したいと強く思う。忙しい最中、限られた情報の中で妹に届いた必然のようなものに興味もあるし、忙しい最中で感じた中からわたしにとすすめてくれた気持ちを読み取りたいと思うから。あとは単純に人にすすめられるという行為が好きなのかもしれないが、とにかく。妹は、映画やライブやそういう自分のための楽しみは少し先の楽しみとしてとっておくという。その素直な言葉にいいなあと思う。いいお母さんだなあと思う。彼女ももしかしたらおんなじなのかもしれない。今目の前にあってできることに没頭して没頭して没頭しているのかもしれない。そう考えてみたら嬉しくなった。だから、そういう意味において、わたしたちは同士なのかもしれないと、暇人なわたしがこっそりスーパー多忙母さんの仲間入りをしてみたりした。写真はそんな妹の三人の子どもたち。なぎとん、うーちゃん、わかさま。みんなやっぱり良い子なのです。