ノーカントリー/ジョエル・コーエン イーサン・コーエン

ついにと言おうか、とうとうと言いましょうか、 「ノーカントリー」みてきました。いつもは小振りの映画館で上映する映画を好むわたしでありますが、今回は大きな映画館の大きなスクリーンでみれたことが実によかった。まずは冒頭から「テキサス」という土地の美しい様にただただ目を奪われた。そこに転がっている死体までもが美しい。私の記憶の中にも、この「テキサス」土地に魅了された監督や画家がいたよなあと、思いだし。ここはやっぱり、人を惹き付けて駆り立てて止むことがない場所なのだなあと思う。常軌を逸したことがおきるには、磁場のようなものがある。それが、ここである。という力が画面にあった。動物も人間も死んで骨にかえって野ざらしになっていく場所。死んで産まれるのではなく、死んでなくなってしまう場所。その「テキサス」という土地の美しさに魅入っているうちに、金縛りにかかり、映画に押さえつけられたまま見入っていた時間でした。

物語は、老保安官の嘆き節のようなカタチで始まり終わっていくのだけれどーこれはきっとアメリカに限ったことじゃないんだろうなと思うし、今の時代が進めば進んだだけ起こり得ることなんだろうなと思う。世の中がどんどん分からなくなる。分かることを必要としなくなる。アントン・シガーという男のバックボーンが分からないように(必要ないように)、殺される側も、その理由も必然も分からないまま殺されていく。たった数秒映し出される殺される側の人間の風貌や言葉の端々から、(一応)常識人であるわたしには、その人たちがおおむね「良い人」であることが簡単に分かる。分かるだけに、次のシーンで躊躇うことなくエアガンで頭を打ち抜かれる様がやりきれなくなる。しまいには、どうか殺される人たちよ、ただ、記号のような代名詞のような輪郭のはっきりしないのっぺらぼうであってくれと祈りたくなる。この祈りは、本来すごくおかしなものだ。だけれども、アントン・シガーが基準であり、神であるかのようなこの映画の中において、人々は殺されるためだけに出てくるその他大勢ののっぺらぼうであって欲しいと願いたくなる。


物語の中で二度コインは投げられる。シガーは「表か裏か、賭けろ」という。質問に意味はない。勝てばどうなるか、負けたらどうなるか、答えなどないまま。ただ、賭けろと言う。ガソリンスタンドの男は、表にかけて助かり。ルウェリンの妻は、「賭けない」と答えた。「表か裏か、結局決めるのはあなたよ」と。保安官は、おそらく人を取り締まり裁けるという、ある種、神がかった神にいちばん近いはずの存在だった。この老保安官の父親の時代でも血なまぐさいことはことはあったけれど、どこか物語の枠をはみ出してはいなかったし、理屈の中で起こったことだった。だけど、もう、トミー・リー・ジョーンズの時代には、通用しないのだ。ある種、神がかり神にいちばん近いはずの存在は、殺す側の、コインを投げる側の人間になってしまったのだから。ヒーローは存在しない。ただコインを投げる側の人間がいて、それを甘んじてうけるしかない人間が存在するのだ。なんて。

人は失ったものを取り戻そうとして、さらに失う

映画をみながら、アントン・シガーという殺人鬼に何処かで出会ったことがあるような、不思議な既視感がずっとあった。「わたしはこのおとこをたしかに知っている」と、そう思いながらみた。それは「わたしはこのおとこだけには知られたくない」という気持ちが強すぎたからかもしれないし。ある種の懐しい映画史に残るような殺人鬼の匂いがあったからなのかもしれないけれどー。とにかく。ヒーローは存在しない。人によって人は裁けない。「NO COUNTRY FOR OLD MEN」のOLD MENに限らず、わたしたちにとってもNO COUNTRYなのかもしれないねーと、思いながら、人でごった返す土曜日の歌舞伎町の街を足早に通り抜けたのでありました。