パラノイドパーク/ガス・ヴァン・サント

僕らの問題なんて小さくてバカみたいさ


帰り道「渋谷、渋谷、」と名乗られると、ついつい映画館に足が向くわたしであることよー。シネセゾン渋谷にて 「パラノイドパーク」をみる。ガス・ヴァン・サントのこの感じの映画はわたしのストライクゾーンど真ん中でもあるはずなので、楽しみにしていたのだ。うん。

エレファント デラックス版 [DVD]「エレファント(http://d.hatena.ne.jp/makisuke/20040416#p3)」も、「パラノイドパーク」も、映画館が似合う映画だと思う。空間ごと楽しむのに向いているなあと思う。その場所に身を委ねるようにみて欲しい映画だなあと思う。

美しいその映像にまずは見蕩れる。ざらりとしていて、淡くて、陰影に富んでいて、すごく繊細。そんな必要なんてもちろんないのに、息を潜めるようにそっとそっとみてしまう。息を吹きかけてしまったら、崩れてしまう何かに触れる時のように、そっとそっとみてしまう。カメラはとにかく彼らをじっと見つめている。わたしもカメラ越しにただじっと彼らをみる。時にはどこまでもぐうっーと寄りながら、内側までもただじっとみるかというように。みているわたしはみることしか出来ない。ただみることしか出来ないんだということを知らされて。もどかしいような気持ちになる。わたしの中のいろんなモノが掻き立てられる。何かが起きた時、それでも毎日は変わらずに流れていくということを知るということ。その中で自分だけが「ガラリ」と音をたてて変わってしまったことを知るということ。その決して声高に語れない孤独というモノと向き合うということ。わたしの中の「何か」と重なるわけではないはずなのに。自分が随分時を経てきていることを思いだす。あの頃が、素晴らしかったとか、何かがあったというんじゃないけれど、わたしの中の空っぽだったかもしれない「何か」をなぞり直すかのように、ただじっとみる。


寡黙な映画を埋めていくように詰め込まれた音楽。選曲もわをおーと思ったけれど、いいなあと思う。少し過剰かな?とも感じたけれど。やっぱり彼らの言葉の替わりのようで、足りない言葉を埋めるようで、この過剰がいいのかもなあと思ったりした。