風花/川上弘美

木香薔薇


風花

みっともないことなんだな、他人と共にやってゆこうと努力することって。

小説よりも、もっともっとみっともないよ、現実は。と「風花」を読みながら、わたしはぽつんと呟いていた。川上弘美の新作「風花」を読みおわりました。読んでいる間は、さらりとした印象を受けたのだけど、読み終わって、後から後から沸き上がってくるモノに捕まってしまって、わたしはちょっと身動きが取れないでいる。気持ちが引っぱられて、出掛ける気持ちにもバサバサと洗濯物を片付けてしまう気持ちにもなれないでいる。目を閉じて横になっていると、夢の続きのような物語の続きのようなわたしのとりとめもない考えごとの続きのような世界にぼんやりと浮かんでいるみたいで。はっきりしない。引き算の小説だなあと思った。もしくは、寡黙な小説か。いろんなものが削がれて引かれて、でも、ありありと残った小説の骨格は、それでも不思議と剥き出しの印象を受けないのだな。淡くてやさしくてどこか不思議で気持ちがいい。川上弘美の書くものを「カマトト」と評したのは、確か金井美恵子だったと思うんだけど、「カマトト」ここに極まれり。うん、「カマトト」でいいんじゃない?とも思った。不倫も離婚も嫉妬も怒りも、「カマトト」川上弘美にかかったら、みんな淡くてやさしくてどこか不思議で気持ちがいい。そして、それでも、わたしの芯にぐいっと刺さって、なかなか抜けない刃でもあるんだな。


小説の終いに「卓哉」と「のゆり」は、ほろほろと涙を流す。ことに「のゆり」は、自分でも気が付かないままに、いつの間にかほろほろと泣いている。それは丁度小説を読んでいるわたしの姿と重なった。わたしも、気が付いたらほろほろ泣いてた。わたしって小説を読んで泣くような人だったっけ?と思い返し、そうそうこの人(川上弘美)には、何度も何度も泣かされたなあとすぐに思い当たった。 「しゃくりあげる」ように泣いたこともあった。 「嗚咽のようなモノが込み上げてきた」こともあった。そして今度はほろほろと、ほろほろと、涙が頬をったって落ちていった。

この人をずっと好きでいることが出来るのは、きっと、わたしだけなのに。


「のゆり」は少し鈍いところがある。女として、だめなところもある。じれったいところも多分にある。自分の気持ちさえよく分かっていないところも。それでも、少しずつ自分と向きあい、「卓哉」と向きあい、新しいことに慣れていく。

がんばれ、がんばれ。何回でも、のゆりは自分に、言い聞かせる。

人は難しいなあと思う。人と人は難しいなあと思う。「のゆり」はいつでも「卓哉」のことを気にかけている。側にいる時もいない時も、カラダの周りにはぽっちりと彼の気配を漂わせてる。彼のことをいちばんに考えるのが、すごくしっくりして馴染んでる。それはもう仕方のないこと。なくならないこと。引き受けなくてはならないこと。だけど、だからって、そのままじゃあいられないんだ。人が人と別れる時、それは愛情が色褪せてしまったからなんかじゃないんだな。人が人に別れないと言い張る時、それはその人をすごく愛してるからってわけじゃないんだな。人は難しいなあと思う。人と人は難しいなあと思う。どっちに決めたって、きっと等しくさみしさもある。楽しさもある。ただ、どちらのさみしさを、とちらの楽しさを、その人が選ぶかってことだけだ。それでもやっぱり難しいよなあとしみじみ思う。区切りのように、わたしもひとつ大きくため息をついてみる。


それでも、物語の終いに「のゆり」が「卓哉」にとって眩しいものになれたから、いいやと思った。これでいいや。いいんだあと思った。思うようにした。思ったけど、なんだかわたしはまだまだ悲しくて、やっぱりこの物語の余韻の中に淀んだままでいる。思いの淵に沈んだままでいたいみたいだ。もう少しだけ。もう少しだけだから。