鉄コン筋クリート/マイケル・アリアス


クリスマス・イブの街の喧騒にてこずりながら、楽しみのような怖いような気持ちで「鉄コン筋クリート」をみにいった。楽しみで、だけどやっぱり怖いような気持ちだねと、言い合いながら。人込みをまさに縫うようにして、なんとか映画館まで泳ぎ切った。みたいな感じで辿り着いて。



鉄コン筋クリート」は、今も変わらず私の中にある。すごくすごく大切な作品。かけがえがない大事な本。この本を開くとたちまち「ここでただこうして生きている」ことが、どうにももどかしくなってしまう。好きというより、焦がれてしまうような。やるせなくなって、ちょっと泣きたくなってしまうような、そんな存在で。だから映画館に辿り着いたのがギリギリのバタバタだったってのもあるんだろうけど、映画がはじまってからもずっとずっとドキドキが鳴り止まなかった。



漫画の世界とは別物として、だけどしっかり「鉄コン筋クリート」のあの世界を堪能させてもらった。監督の切り取った世界が、私はいいと思った。ココロノソコカラ。原作の持ってる「クロ」と「シロ」の世界と、映画の中の「クロ」と「イタチ」の世界。どちらもが私の中に侵食されずに残っている感じなのだ。「シロ」がアニメになって、はじめてその声が音声で流れるようになったことで、無垢な「シロ」が垂れ流されるように、溢れていることで、「クロ」の「行き場のなさ」のようなモノも実感できたように思う。「クロ」の孤独感みたいなモノ。



前半、あまりに完成された街の姿に、見飛ばしていくのがもったいなくて。焦ってしまう程だった。目は、総てを余すことなく見たがって、物語が進んで行くのを拒むかのようだったし、何から何まで見たがって大変だった。



そして後半。ボロボロボロと涙が溢れていくのを知っていたけれど、あの涙は今でも上手く説明がつけられそうにない。ただただ圧倒されて、画面からダイレクトに伝わる空気に自分を同調させるように見ていた。目は見ることをやめ、ただダイレクトに私の中に注入していく穴ぼこのような役目を果たしていたかもしれない。いや、そうあろうとしていたかもしれない。自分というフィルターを通すことなく、ただただありのまま、画面から伝わるものを飲み込んでやろう。注ぎ込んでやろう。と、ココロを空っぽにして臨んでた。取り込んだ分押し出されたような。自分の心臓の高鳴りが押し出していったような。ただただ反射神経のような、そんな涙だった。ように思う。今になって理屈をつけて解釈をするならね。



戦いが終わって、クロに残った傷を見た時。その傷こそが、シロとクロを隔てた証なんだけれど、その傷こそが、二人のこれからの大丈夫の証のようにも見えて。今度は、さっきよりあたたかい涙が、私の胸の辺りから込み上げて流れていくのが、よく分かった。何時の時代も幾つになっても、シロはクロがいれば大丈夫。クロにはシロがいれば大丈夫。こんな当たり前ですごいこと、やっぱり私は他にしらないし。こーゆーやり方しかできない自分を、それでもいいやと、今夜思った。何時か何処かに辿り着ける場所があって、そこがあたたかで明るくて好きなものばっかりごちゃごちゃと埋まってて賑やかなところならいいなと思った。



安心。安心。