「わたしいまめまいしたわ」から「わたし大好き」というわたしわたしの一日

草間彌生



屋上で洗濯物をパンパンと干していたらば、うっすらと汗までかいていた。気持ちが良くなって、大きくひとつ伸びをした。ねこもゆらりと伸び切って、うららかすぎるそんな一日。掃除もそこそこに街に出る。眩しいぐらいの春の気配に、気持ちもぬるぬるとゆるんでく。もうすっかり春なんだなあ。と駄目押しされたような一日。吉祥寺で 「アボガドタコライス目玉焼きのっけ」を食べながら「ぴあ」を捲っていたら 「わたしいまめまいしたわ」がそろそろ終わってしまうと知る。それならばと、東西線に乗り込んで一路竹橋を目指す。ここ(→http://www.momat.go.jp/Honkan/honkan.html)の展示はいっつもボリュームがあって好きなのだな。いつかここで見た「草間彌生:永遠の現在(http://d.hatena.ne.jp/makisuke/20041112#p1)」は、いまでも忘れられないわたしのお気に入りの時間に変わらず組み込まれているもんな。


今回もまずはそのボリュームが嬉しい。次から次からと待ち受けている、見られる為のものが待っていてくれるというトコロが嬉しくて気持ちがウキウキとしてくる。たくさんのわたしに会う。わたしがどんどん複製されて増長されていくさまをみる。自画像と銘打った作品でさえ、いくつか並べていけば、その中でわたしというものは見つけづらく。わたしというもののあやふやさに気づく。どんどん希薄になっていくわたしを感じつつ、いろんなブースを覗けるという楽しさよ。


牛腸茂雄の写真をみている。と、じっと見つめられているのが、被写体なのかカメラマンなのかそれともわたしなのか、だんだん曖昧になってくる。彼の写真は、なんか変だ。その「なんか変」は上手く言えないんだけど。やっぱりどこか変で。その変という感覚がみていたい気持ちに繋がっているみたいだ。右に右にとスライドしながら60点ほどの作品を連続で見ていると。不思議な高揚感でむらむらしてくる。変だよなあと声に出して言いたくなってくる。変だから見ていたくなるんだよと声に出して言いたくなってくる。


草間彌生、ブリジット・ライリー、日高理恵子、金明淑(キム ミョンスク)の大きな絵画が4点が展示された「揺らぐ身体」のブースが好きだった。女性作家ばかりのそのブースはみていると、自分の視界が広がっていくようで、その世界の中に取り込まれていくようで。しばらく足が止ってしまう。動けなくなったわたしをよそに視線だけがいろんな気配を感じ取っていて、ぐいっーと寄ったり見上げたり潜り込んだりと忙しく働いてた。絵に取り込まれるという感覚にしばしうっとり。うっとりうっとりしているうちに、猛然と、もっともっとと草間彌生という人を見たくなって、その足でライズXへ。こういうトコロが東京という街に暮らすよいところだなあとしみじみ思う。東西線半蔵門線を乗り次いで渋谷のライズX

「≒草間彌生〜わたし大好き〜(http://www.kusama-loveforever.com/」。

現在も意欲的に作品を作り続けている草間彌生を見ることが出来て、まずはとても嬉しい。50点に及ぶ連作の新作(愛はとこしえ)を産み出す現場にー映画の観客ではあるけれどー立ち合えたという幸運に感謝したくもなった。作品が出来上がるまでをカメラの早回しでみられるなんて、贅沢すぎて眩しすぎて、ちよっと息をするのを忘れて見入ってしまった。ラストシーンで右に左に新作の立ち並ぶ道に座る草間彌生の姿は、神々しかった。


可愛らしいおばあちゃんである。という一面も確かにあるのだけれど、この人の揺らぎない天才前衛芸術家である部分に感服する。「じぶんのすること全部最高」「わたしだいすき」「愛はとこしえ」「わたしって天才」どの言葉にも魂の裏打ちがあって、信じている揺らぎないモノがあって、納得させる力があって、わたしのこころに強く強く届いた。言葉と作品は、限りなく=だった。作品と人物も、限りなく=だった。彼女自身も限りなく芸術作品だった。


今にとどまらず、ニューヨーク時代の彼女の創作現場が覗けたことが嬉しかった。彼女は今、老いることや死ぬことと戦っているのだなということも知った。晩年ということに敏感に反応し、自分はまだまだ晩年でないという彼女の芸術家としての正しい欲にうっとりした。もっともっと高みに登りたい、登った分だけ高みは高まって欲しいという彼女の飽くなき欲に感服した。彼女にとって死ぬことはある種理想郷でもあるかもしれないけれど、そこへ至るまでのこれからの戦いぶりを想起させてくれるようなドキュメンタリーだった。そして何よりも、新作を待望されているという現在進行形の芸術家なんだなということに新鮮に敬意を払い直した。気が付けば、朝干した洗濯物を取り込むタイミングは見事に外してしまったけれど、わたしに溺れたいい一日だった。ありがとう東京といいたくなったいい一日だった。