バナナとバナナ味の間にあることに関する一考察

青空と桜

いとしい (幻冬舎文庫)

バナナ味のチョコレートを食べる。 「明治バナナチョコレート」。思った通りと言おうか、ああやっぱりねと言えばいいのか、想像していた通りのバナナ味だった。私に限らず、おそらくは万人の想像を上回ることも下回ることもない。期待も裏切らない。進歩も退化もない。言うならば誰もが承知している「バナナ味」のチョコレートだった。


だけれども、これって「バナナ味」だけど「バナナ」じゃないよな。と、いつもしみじみ思わずにはいられない。おそらく誰でもが、このチョコレートを食べた時「バナナ味」だなと自覚するだろうけど、誰もがこれは「バナナ」じゃないな。ということも感じている。つまりは世の大多数の人間が「バナナ味」は「バナナ」でないことを認識しながら、この「バナナ味」は「バナナ」で行きましょうと黙認しているということになる。大目にみているということになる。もっと言えば、承認を受けているということになる。認められている味なのだ。

 
バナナだけれど、バナナじゃない バナナじゃないけれど、やっぱりバナナ

 

これが「バナナ味」の定義ではなかろうか。それでは「バナナ味」ってモノはそもそも一体なんなんだろう?おんなじことが「イチゴ味」にも言えるかもしれない。と思わないでもないのだけれど。昨今のイチゴ味というヤツは、ブツブツだったり果肉そのまんまだったりトロリとしていたり、進歩や変革が著しく、各メーカーによっても差別化が進んでいたりする。だから「バナナ味」のように、まあ「イチゴ味」ってこんなモンでしょう。と規定してしまうのは危険であるかもしれないし。期待や想像を裏切られることもあると思う。
  

となると、進化も進歩もなく想像も裏切らない、各メーカーにおける差別化もみられない。このバナナでない「バナナ味」のことが私はますます気にかかる。この息の長い「バナナ味」を「まあ、こんなモンでしょうかね」と、定めた人が何処かにいる・いたということも大変興味深い。決めるにあたっての、葛藤やひらめき達成感や妥協点みたいな部分をインタビューしてみたい。不安はなかったのかなとか。風当たりは強くなかったですかとか。なにか揺るぎない根拠のようなモノがあったのですかとか。いろいろを根掘り葉掘りと聞いてみたい。

「誰かを好きになるということは、誰かを好きになると決めるだけのことかもしれない」

と言ったのは川上弘美の小説「いとしい」の中の姉妹の姉か妹のどちらかだったけれど。「バナナ味」も、誰かが「これがバナナ味ですから」って決めた人がいたのだねえと思う。「決める」ってことの偉大さととんでもなさと運命のようなモノ思う。カフェ・オ・レでバナナ味のチョコレートを舐め溶かしながら。「バナナ味」の辿ってきたであろう道のりを思う。きっときっと「バナナ味」に限ることなく、この世の中は誰かが「決める・た」ことの寄せ集めなのかもしれない。「決める・た」ことで出来上がっているのかもしれない。そうすることだけが、世界を作っていけるエネルギーなのかもしれない。なんて、ちょっと大きめの風呂敷を広げてみたりもした。そんな夜。