カツオのタタキ風サラダ

カツオのタタキ風サラダ


生のカツオをごま油をひいたフライパンでさっと焼いてからスライスする。わたしの好きな薬味をとにかくたっぷり盛りつける。例えば、新タマネギとかパプリカとかスプラウトとかパクチーとかルッコラとかセロリとかアサツキとか(大葉もいいし三つ葉もいいね)。そこにポン酢をたらっとかけてからから熱々に熱したごま油(とにかく煙が出るほどの熱々に限る)をじゅわっとかける。そこをいただく。カツオの季節だねえとしみじみするのも可。

パークアンドラブホテル/熊坂出@ユーロスペース


ユーロスペース 「パークアンドラブホテル」 をみる。オムニバス風に連なる三つの物語は、ややぎこちないというかこなれていないというか、言葉に頼る印象があって、好みではなかったけれどー


髪を白くした女の子が、恐る恐るラブホテルの階段を抜けて屋上の扉を開けた瞬間の。そこに広がった風景とか溢れてた光の感じとか流れてた音楽とかそこに集う人たちとかが、あまりにもしあわせそうで。そこに天国を見たようだったので、もうそれだけでいいやー。と思った。そもそも、わたしはラブホテルの屋上が公園になっているというその風景がみたくてみたくて、ここにきたんだっけなあということも思いだして、これだけで、もうやっぱりいいやー。と思った。

帰り道。映画の中の女の子がいい感じだったので、髪を真っ白に染めてみたくなった。けど、仕事柄やっぱりまずいよなあと、素直に諦めるのだけど。真っ白な髪。素敵に真っ白なアタマになるということで。年をとるとかそういうことが、何故か急に楽しみになったりもした。

田植えの合間に腰を伸ばして顔を上げると、そこにはやっぱり山が見えた。

お母さんの育てたアイリス



写真は去年の田植えから、晴れた日のフルサトの五月


  
 


田植えの手伝いにフルサトに帰る。仕事帰りの新宿から高速バスに乗って、一路フルサトの地を目指す。一度の休憩を挟んで、三時間ばかりで到着することが出来る私のフルサトは、海はないけれど山と空がある。もとい、山と空しかないようなところと言った方が分かりやすいのかもしれない。バスから降りると随分寒くてびっくりする(東京も随分寒かったみたいだけど、何せ滞在中にミゾレが降ったぐらい!)。土曜日は一日雨が降っていた。みんなで一日中雨の止むのを待って終わった。途中からはすっかり待っていることさえ忘れてしまったけれど、それでも一日中待っていた。待ちながら、掃除をしたり温泉に出掛けたり馬刺しを食べたり甥っ子や姪っ子と遊んだりみんなで昼寝をしたりした。夜は何枚も布団を繋ぎあわせてみんな一緒に眠った。寝相の悪い甥っ子君に何度か蹴られたり抱きつかれたりしたけれど、朝までしっかり眠った。日曜日はまだ雨が降っていたけれど、だいぶ小雨になったことだしせっかく集まったのだからということで、合羽を着て田んぼにはいった。田植え機が植え残していった所を探しては、田んぼを歩いた。一歩一歩歩きながら全部人の手で植えていたのは、わたしが高校生ぐらいまでだったなあ。小学校の頃は、土曜の半日が終わると大急ぎで田んぼに駆けつけたっけ。親戚のおじちゃんやおばちゃんが賑やかに集まっていて、早くみんなに合流したくって、あそこで食べるごはんやおやつ(お茶)が楽しみで、ランドセルをカタカタ鳴らしたものだっけか。アカシアの花が咲いていて甘い匂いしてたっけなあ。

イル・ポスティーノ [DVD]

田植えの合間に腰を伸ばして顔を上げると、そこにはやっぱり山が見えた。もとい、やっぱり山と空しか見えなかった。だけど、山が見えて空が見えた。雨に煙る山には白い靄がかかってた。山の中腹に白い靄を纏った山は、水墨画のような美しさだった。その風景が「美しいものだ」ということに、わたしはこの土地を離れてから気が付いた。そのことを思いだした。そして、はじめて目を上げて、顔を上げて、ぐるりとふるさとを「見た」日のことを思いだした。フルサトを「見る」という行為をはじめた日のことを。思いだしたらこの映画→(http://d.hatena.ne.jp/makisuke/20011024#p1)をもう一度みたくなった。わたしに「見る」ということを思い出させてくれたこの映画を。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド/ポール・トーマス・アンダーソン@渋谷CQN

とにかく、素晴らしかった。映像も音楽も人々の顔つきも。夢中でみた。みることを貪った。その迫力。その美しさ。美しさにべったり貼り付く醜さ。醜さに貼り付く滑稽さ。壮大なこの映画がみせてくれたのは、あくまでも小さな男の物語だという皮肉さに満足した。小さいなあこの男、小さいぞ。醜いぞ。大きければ大きいほどに浮かび上がる小ささ。美しければ美しいほどに浮かび上がる醜さ。不穏さ。如何わしさ。この男が信じられなかったモノ許せなかったモノって、やっぱり小さいんだよなあ。あんまりにも。って、楽しみにしていたポール・トーマス・アンダーソンの新作 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」をみる。その壮大さ。終わりのかっこわるさと滑稽さ。美しさ。それらが古典のような神話のような味わいをわたしに残してくれた。人間て、人間たらねえ。全くねえ。と、人間よりも大きなはずの何かにそっと耳打ちしたくなるような映画だったよ。ジョニー・グリーンウッドの音楽が、ほんとうに素晴らしいよ。息子である男の子の無表情ぶりもよかったよ。地底から沸き上がってくるどくどくとした黒い液体にわくわくしたよ。事故のあの迫力に燃え上がる炎の力強さに、映画を見ているんだっていうことを忘れたよ。最初にも言ったけど、とにかく夢中でみたから。みることをひたすら貪ったから。

大きく開けた窓からは、少しだけ涼しさを含んだ風が心地よく吹いてくる

亀万次郎


世の中は大型連休のいよいよフィナーレをむかえているようだけれど、わたしは土曜と日曜日休みの当たり前の淡々とした日々。だったのだけど、ぽっかりと仕事が空いたので、休んでいいよということに。で、俄然嬉しくなる。嬉しくなって、亀を洗ったりねこをブラッシングしたり植物たちを手入れしたり掃除機をかけたり洗濯をしたり珈琲をドリップしたり。久々にカラリと天気が良くって嬉しくなる。大きく開けた窓からは、少しだけ涼しさを含んだ風が心地よく吹いてくる。亀に竹輪をあげたら、わたしの手からとってぱくぱく食べた。ねこにも竹輪をあげたら部屋中転がしてから、勿体ぶって食べた。わたしも真似してぱくりと竹輪を食べてみる。今週末は実家の田植えということで、高速バスの予約をする。今年は参加者不足が懸念される年、植えるよ。働いてくるよ。その働きぶりで、おぬしもなかなかやるねと言わせてみせるよ。今年はこそはね。だから、ひさしぶりのふるさとで。タラノメの天麩羅をたくさん食べて馬刺しも食べて温泉にはいってイノチの洗濯とやらをしてきまっす。

愛おしき隣人/ロイ・アンダーソン@恵比寿ガーデンシネマ

足下の黄色い花


その昔「散歩する惑星asin:B0000DJWED」という不思議な後味の残る映画をみた。「おそらくは、ダメそうな人たちが目白押しで、どん詰まりの行き詰まり感がべたっーと貼り付いてしまったような映画でもあるけれど。そこはかとなくユーモラスな感じが漂っていて、ついついクスリとしてしまう」ような映画だった。そして、そんな世界がどこかにあるかも?んんん、きっとあるはず。あってくれたら、案外いいいかもっ。て思わせてくれ映画だったっけーそのロイ・アンダーソン監督の新作 「愛すべき隣人」をみに。恵比寿まで。「散歩する惑星」同様、今回もカメラはやはり動かなかった(のに、動くはずのないモノが動いちゃったりして楽しかったけれど)。その動かない様に、なんだかどんどん心地よくなってきた。動かないカメラ、好きだなあわたし。

今日もついてないことばかり
でも明日はきっとしあわせ

ロックスターとの結婚を夢想する女の子とか、世界で一番ツイていないと嘆き悲しむ夫婦とか、誰からも愛された事のない男とか、「誰も私を理解してくれない」と泣き叫び(何故か)歌いだしてしまう女とか、困窮した家計を静かに嘆き患者の悪口をまたまた静かに嘆く精神科医とかー今回もやっぱりダメそうなしみったれとも言うべき人たちが目白押しなんだけど「散歩する惑星」よりも、随分明るい印象をうける。カウリスマキのあの世界を思いだして、さらにわたしの居心地度がアップしたというような。とにかく、わたしが大人になったからなのかな?音楽の力なのかな?人々の嘆く樣までも、なんだか微笑ましくって、可愛らしくみえてくる。人々が嘆きながらも「きっとある」と信じてるしあわせな明日が、映画越しにわたしにはしっかり見えた気がした。だから、すごくいい気分で空が高い感じのする街、恵比寿を後にしたのだった。

ということで、「愛すべき隣人」が晴れてわたしの選ぶ 「映画の中の(愛すべき)ダメな人」に仲間入りしましたのでご報告まで。