今夜みたテレビ

  
今夜放送していた、清志郎の番組をみる。みたとおもったら、もう終わってしまって。それはあまりにあっけなくって。余計に強く濃く、わたしにさよならを突き付けたような、強要されたような時間だった。


たぶん、どんな時間を費やしたって、足りない。足りることなんて、ないんだとおもう。見ても、見ても、見足りるってことがない。なにをどうすれば、わたしが足りて、そして納得するのかなんて、わからない。それがお別れで、さよならだってこと。今夜、こんな形で知ってしまった。


さらならに満足の形なんてないんだってこと。


もっともっともっと、あの声を聞く機会だってあったんだよなと。今更ながらの後悔は、ただの後悔で、もうどこにも辿り着けない後悔だ。ただ、その、どこか突き抜けたような。どこかあっけらかんと明るいような。センチメンタルな物語を拒むかのようなその声は、やはりわたしを安心させて。納得させてくれるんだ。清志郎の声は、歌は、いつだって粒子単位でわたしに届く。せつせつせつと届いてくるその歌声は、一度意味合いが分解されて、わたしの耳にざらざらと流れ落ちて、そしてまた作られる。作られた歌は、誰のものでもない、わたしの歌だ。


キヨシローの歌は、わたしといろんな人をつないでくれた。わたしと誰かの関係を確かなものにしてくれた。わたしに忘れられない誰かを作って。歌と一緒に寄り添う誰かを強く感じさせてくれたんだ。だから、すごく人が恋しくなる。人という存在が、そこにある体温が、色が、音が、匂いが、恋しくなる。恋しくなって、取り戻したくなる。


今、いろんな断片の記憶がわたしの中に溢れ出していて、少し苦しい。苦しくて苦しくて、全然まとまらないけど、まとまらないまま。今夜は寝ます。

実験4号/伊坂幸太郎×山下敦弘

実験4号遅くなった。遅くなったけど、今夜、例のモノ読んで、ンで観た。そして今聴いてる。CDラックをごそごそやって「リハビリ中断」引っぱり出してきた。あと「とどめをハデにくれ」も。それだけじゃ足んなくって「ブッチメリー」も2枚。「実験4号」って曲。わたしはいつも落ち着いて聴けたことがないンだな。今だってそうだよ。苦しくなるし、実際苦しくなってる。この曲にはわたしの物語ってヤツが嫌になるほど重なってる。あっつ、そういう意味じゃあ「実験4号」に限ンないよ。ピーズの曲はみんなそうだ。ストーリーってんじゃないんだけど、フラッシュバックみたいに浮かび上がってくる残像みたいな映像で出来上がってるみたいだから。直視する自信なんていつもないから、目を堅くつぶってやり過ごそうとすンだけど、目を閉じたら見えなくなるような、そんなもンじゃないんだよ。置いてかれることが、取り残されることが、死ぬほど嫌いなわたしが。だけど逃げ遅れて、タイミング外しまくった、あの日のわたしってヤツがみえるから。だけど、あがいてもがいてなんかまた作りたがってるおーじょーぎわの悪すぎる自分てやつが見えるから。って、ある意味ドキドキしながら読んで観たけどさ、伊坂幸太郎の「後藤を待ちながら」も山下監督の「It's a small world」も、どっちも以外によかったよ。伊坂幸太郎は、小説がどーとかいうんじゃすでにないけど(ごめンね)、はるのインタビューをこうやって読ませてくれて、ありがとーって、単純に感謝だ(ゴールデンスランバーはすごく面白かったからさ、そっちの方はココロ込めて感想書くから、今回は許しておくれね)。山下監督は、相変わらずいい距離の取り方だよって思った。人をくってるよ、すごくナチュラルに。この人、やっぱり好きだわって思ったよ。ピーズのこと好きかどうかもわかんないもん。手の内見せずに、だけど、わたしをちよっと泣かせたんだから。子どもたちの顔がいいね。なんかバカみたいに楽しそうでアホみたいに楽しそうで、ンで悲しくなったよ。悲しいけど、明るかったよ。きっちりちゃんと。

ブッチーメリー The ピーズ1989-1997 SELECTION SIDE Aブッチーメリー The ピーズ1989-1997 SELECTION SIDE Bリハビリ中断とどめをハデにくれ

昔書いた自分のレビュー↓に、あらためて自分でぐっとくる。わかくてあつくてかわらいね自分。自給自足でハッピーで、そんな自分に安心した夜。わたしもまだまだ。末期的な夕焼け空みたいな。悲しいことなのに明るいような。そんなこんな。きっとある。きっとーっと。

ずっと具合が悪くって発熱と吐き気と生理痛の苦しみの中それでも電車に乗っかって仕事に行く。誰に何と言われようと、アタシにとってはギリギリな状況だ。随分吐いたし、少しだって胃の中に食べ物があったら、もうたまらなくむかむかとしてくるわけだ。それでも行かなくてはならない場所があり。しなくちゃならない仕事がある。ギリギリだ。だから丸まって。アタシはこの世の果てを思う。丸まって。腹を押さえて痛みと熱で気が遠くなりながら薬をバリバリ噛み砕いて、この世の果てを夢想する。

とどめを とどめを とどめをハデにくれ
夢は見た やり尽くした 打ち止めだ おらオサラバだ

この血の流れが終われば、ウソみたいに引いていくこの気持ち。だけどアタシは簡単にだめンなる。面白いように簡単にだめンなる。だめンなってだめンなって。紙クズみたいなくしゃくしゃな気持ちンなる。ぬかるみみたいなぐちゃぐちゃな気持ちンなる。 そう、あの頃のアタシみたいに。

シニタイヤツハシネ シニタイトキニシネ
シニタイトキニシネ シニタイヤツトシネ
シニタイヤツハシネ

だから、ピーズをヘッドフォンから流してる。ふらふらの体で聞いている。酸素マスクみたいに点滴みたいに輸血みたいにどぼどぼと流してる。アタシをこの世に感染させないために。どぼどぼどぼと流してる。頭が痺れて何にも考えなくなる。そしたらやっと息がつける。 すべてが消えてしまうように。 ボリュームを上げていく。上げて上げて上げていく。気が遠くなる。私の下らない脳味噌もアタシの重たい血袋も砕け散ってしまうぐらいの爆音で聞いてやる。

やりたい事が多すぎて 何にもやりたくなくなっちまった
やりたくない事が多すぎて 何にもやりたくなくなっちまった
会いたい人が多すぎて 誰にも会えなくなっちまった
考えることが多すぎて どうでもよくなっちまった

ピーズを聞く度に、アタシは切羽詰まる。切羽詰まって身動きが取れなくなる。切ない歌もある。バカみたいな歌もある。カラダが反応する歌がある。苦しくなる歌がある。ラブソングもある。それでもアタシはその度に性懲りもなく切羽詰まって立ちすくむ。どの歌にも平等にどの歌にも隔たりなく。私を切羽詰まらせるもの。それは、その一途さにだろうか?そのストレートさにだろうか?それは何故だか分からないけど、1曲1曲を聞く度に向かい合わずにはいられないのだ。


彼らの1曲1曲は混じりっ気がない。難しくもない。言ってしまえば、バカみたいに単純に私の耳には届いてくる。言いたいことはヒトツ。たくさんは詰まっていない。その潔さはを思う時、それは痛ましさでもある。決して他人事ではない痛ましさ。彼らは一直線に終いに向かって疾走している。それを私は見物している。 羨ましい気持ちとザマアミロの気持ちと。いろんなものが綯い交ぜの気持ち。


巷に溢れる新しい人たちの新しい歌の、複雑さや精巧さやセンチメンタルさやオシャレさを思う時。私はそれらのスバラシサが全然分かってなくって、全然求めていないことに気がつくんだ。そんなもの要らない。ちっとも要らない。そんなものじゃあ、この世の果てに置いてきぼりなアタシは救われたりしない。私が欲しいのは、そんなもんじゃない。

ハンパな笑顔でこっちだけ見てた 
にぎやかなラストにわざと一人
傷を舐めあうのさ 痛みが分かるのさ
確かに未来が昔にはあった
ゆーワケで せっかくだし 悪いけど
続くよ まだ二人いる
何かまたつくろう 場所は残ったぜ
君と最悪の人生を消したい
そして最悪の人生を消したい


今日ピーズを聞いていて、心の底から死にたいと、そう思った。


そして、腹が減った。

なんにもないときのごはん

 冷蔵庫の中を覗くと潔いほど何も入っていないことに家に着いてから気が付いた。今から買い物に行くのも面倒だ。幸い野菜籠の中に、長芋とタマネギが。この間のカツオのサラダの残りのパプリカが。頂物の塩蔵若芽が。と、いろいろあったので。これでなんとか。長芋は網で焼いてからごはんと一緒に炊き込んで「焼き長芋ごはん(伝言レシピ参照→asin:4838716664)」に。タマネギとパプリカはオリーブオイルとクレイジーソルトを振掛けてオーブンで蒸し焼きに。味噌汁は長芋の残りとタマネギと若芽で。「焼き長芋ごはん」は、ごま油とナンプラーが効いていて、クセになる味。なんにもないから、なかなかの夕ごはんが出来ました。

パリ、テキサス/ヴィム・ヴェンダース@吉祥寺バウスシアター

白と黒


楽しみにしていた 「爆音映画祭2008」にて、「パリ、テキサス」をみる(昨日の「ヴァンダの部屋」に行きそびれてしまったのが、非常に悔やまれるけれど気持ちを切り替えて、みる)。まずは、スクリーンで、爆音で、みることができてとても嬉しい。

終わって、後から後から沸き上がってくる余韻というヤツにつかまって。身動きが取れないでいる。ああっとため息が漏れてしまうくらい。近頃、こんなふうにゆっくりとでもしっかりと映画と向きあったことってあっただろうか。みている間は、わたしはただただ空っぽだった。空っぽになって、ゆっくりとでもしっかりとスクリーンにみとれてた。総てが(映像も音も人も物語も)きれいだなあって、ただ。流れていく物語に、ただ、寄り添っていたと思う。ただ、運ばれるようにみていたと思う。そして、爆音の中、その音に包まれていると、自分の内側が静かに静かに凪いでいくのがよく分かった。そういう時間が持てたことがとても嬉しい。

アイム・ノット・ゼア/トッド・ヘインズ@シネマライズ渋谷

眠るぎょんさん


「6人の俳優」で演じる 「ボブ・ディラン」の物語をみる。みるまでは「6人の俳優」という所に一抹の不安を感じていた(薄くなってしまうのではないかとか気忙しい感じになってしまうのではないかとか)けれど、結果「6人の俳優」という所がよかったと思った。人間は言わずと知れた多面体でいろんな面を持っている生き物だけど。それをそのまま、6人でひとりを表すのが不自然でないというのが、きっと、ボブ・ディランという人の魅力でもあるのだと思う。

ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム [DVD]「ノー・ディレクション・ホーム(http://d.hatena.ne.jp/makisuke/20060208#p1)」をみた時も、ボブ・ディランという人が、ボブ・ディランという名の怪物になってしまった結果、そこに生きて存在しているだけでも奇跡というか物凄いことなのだな。と思ったけれど、やっぱり、この人の物語をみていると感極まってくる気持ちが抑えられない。当の本人は多くを語らない。もしくは、語ったことについて語らない。その潔さというか覚悟のようなモノが、彼の孤独を浮かび上がらせるようでもあるけれど。それでも、いろんな温度や色味をのせて、彼の歌はわたしに届く。いつまでもいつまでも色褪せるということなど知らないかのように。

蝉時雨のやむ頃/吉田秋生

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃

ー鎌倉4姉妹物語ーと、言われてしまうと、やはり4姉妹(長女/だけどしっかりしてないよ、全く)として生まれ育ったわたしとしてはやり過せないモノを感じてしまうんだけれど…。ということで、久し振りの吉田秋生を読む。相変わらず、すらっーとした線のキレイな絵だよなあ。切れ長で強い強い目の感じも変わってないよなあ。とまずは嬉しくなる。以外に笑わせてくれる所とかも。語りすぎない話の運びが、いいなあと思う。キチンと言いたいことを口にする人たちとか。いろんな人がいろんなことをぐるぐると考えていることとか。あったかい所と、ひんやりする所が両方ある所とか。やっぱり吉田秋生はいいなあと思う。


そうそう、吉田秋生という人は、「街」を描くのがうまいのな*1と思っていたけれど、この物語は「鎌倉」という「街」が、すごく立体的に描かれていて嬉しくなった。「いろんなものがつまってるって感じ」の古い家も、すごくよかった。姉妹で暮らすって、羨ましいなあと思った。大人になっても、ケンカしたり文句言いあったりむかむかしたりしながらも姉妹で暮らすって、羨ましいことなのだ。もっと大人になってしまったわたしには、帰省の度に顔を合わせる姉妹はいても、もう、一緒に暮らす姉妹はいないんだなあと思う。思うと、言いようのない気持ちに捕まってしまうことがある。「とりかえしがつかない」場所まで進んでしまった自分自身を思うようで。帰れない場所を知らされるようで。この気持ちはいつも苦手だ。だからわたしにとっての「姉妹で暮らす」は、叶うことのない願いのカタチのようで、祈りのカタチのようで、それだけでもう、キラキラと輝いているんだよってこと。スバラシイんだよってこと。

*1:河よりも長くゆるやかに (小学館文庫)「河よりも長くゆるやかに」の福生とか/ラヴァーズ・キス (小学館文庫)ラヴァーズ・キス」の湘南とか/とか